産業革命による大量生産の実現
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「織物」の記事における「産業革命による大量生産の実現」の解説
1733年、ジョン・ケイの飛び杼の発明によって、幅広の織物の生産に助手が不要になり、生産性が大幅に向上した。1761年にブリッジウォーター運河が開通すると、マンチェスターへの木綿運搬が増大し、豊富な水資源を背景に、水力を用いたジェニー紡績機やミュール紡績機等が開発され、紡績が機械化された。 1785年、イギリスのエドモンド・カートライトはドンカスターに織物工場を建てて、最初に織機の機械化に取り組み、1792年までの間に多くの特許を取得した。その功績により、エドモンドは1809年にイギリス議会から1万ポンドの褒賞を得ている。1788年、兄のジョン・カートライトもレットフォードに革命工場(Revolution Mill、名誉革命100周年を記念した名称)を建設し、1791年、その織機をマンチェスターのグリムショー兄弟のノット工場(Knott Mill)にライセンスした(ただし翌年に全焼)。しかし、織機の機械化には時間がかかり、この頃のイギリスの織物産業を実際に支えていたのは、約25万人の織手であった。 一方、フランスでは、1801年頃にジョゼフ・マリー・ジャカールによって、複雑な文様の織り出しを自動化したジャカード織機が発明された。パンチカードを使ったジャカード織機は画期的であったが、非常に複雑であったため、普及には年月を要した。 1805年頃からの20年間になって、ようやく実際的な力織機の開発が始まった。力織機等によって失業の危機にさらされると感じた職人が主導したラッダイト運動(機械破壊運動)等、反発も強かったが、様々な技術革新を経て、機織りは蒸気機関で駆動する工場生産へと変貌していった。1823年に綿織物業の歴史を記したリチャード・ゲストは次のように述べている。 25歳から30歳前後の優秀な男性手織り職人なら、1週間に、8分の9幅〔約91.5cm〕のシャツ地を2巻織ることができる。1巻は24ヤード〔約22メートル〕で、1インチあたり緯糸が105本、ボルトン式であれば筬の目は44、経糸・緯糸ともに1ポンドあたり40かせである。一方、15歳の蒸気織機職人なら、同じ期間に同質の生地を7巻織ることができる。……200台の力織機を要する蒸気機関工場の生産量は、最低でも手織職人2000人分の雇用に相当するといって良い。 1842年、ウィリアム・ケンワージーとジェームス・バローがランカシャー織機(英語版)によって、織機の半自動化に成功した。また1843年には、単純な紋様を自動的に織り出せるドビー織機(英語版)が登場し、広く普及した。金属・機械製造業の発達により、金属製の大型の織機が製造できるようになり、ランカシャー・アクリントンの ハワード・アンド・バロー社(英語版)、マンチェスターのトゥイードルズ・アンド・スモーリー社(英語版)、19世紀末には世界最大規模となったオールダムのプラット・ブラザーズ社(英語版)等の織機製造社が急成長を遂げた。 マンチェスター周辺の綿織物業では、初期は紡績と機織りの工程が隣接していたが、次第に両者は分離し、グレーター・マンチェスター周辺に、織物専門工場を抱えるいくつもの小さな工場町(英語版)ができた。一方、毛織物、特に梳毛織物産業はウェスト・ヨークシャーで発達し、紡績と機織りが一体化した形で発展した。ウーステッドは縦横に梳毛糸を用いた織物で有名であり、またブラッドフォードも織物業で栄え、当時世界最大の絹織物工場リスター工場(英語版)があった。 北米大陸のニューイングランドでは、機織り技能を身につけた人々の移住により、ポータケットやローウェルといった地で織物産業が栄えた。
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