海駅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 01:23 UTC 版)
三之瀬 忠海 御手洗 鞆 広島城 近世における御手洗周辺の地乗りおよび沖乗りの港。赤が地乗り、緑が沖乗り、黄が共通。朝鮮通信使は三之瀬と鞆を多く利用している。 安土桃山時代、豊臣秀吉による文禄・慶長の役を機に、瀬戸内海海路の整備が行われその要所には海駅つまり海路の宿駅が設置された。江戸時代に入ると、江戸幕府もこれを継承した。広島藩領は、慶長5年(1600年)藩主となった福島正則が藩経営のため積極的な経済基盤の整備をおこなっている。その中の一つが海路整備で、江戸幕府からの命により正則は藩内の三之瀬と鞆の浦を海駅に指定する。ここで向浦ではなく三之瀬の方が選ばれたのは、向浦が海上を観察するには地形的に不利だったため。のち正則は改易され、鞆は備後福山藩の港となるため、三之瀬は広島藩唯一の海駅となる。 三之瀬は福島検地以降「町方」とされ、後に”福島雁木”と呼ばれる雁木や波戸が整備され、本陣・番所そしてお茶屋が常設された。本陣はいわゆる”浜本陣”で、玄関・次の間・御居間・御寝間・納戸・風呂など本陣としてほぼすべて揃えていた。番所には”蒲刈繋船奉行”が入り、幕命による公用物資の取り扱いや海上警護などを行っていた この港は広島藩のみならず、参勤交代での西国大名、長崎奉行、オランダ商館長、そして琉球使節や朝鮮通信使が利用している。 特に朝鮮通信使の記録が残っている。江戸時代の間、通信使は12回派遣され、うち11回は三之瀬に宿泊している。広島藩は失礼がないようにと丁寧にかつ豪華に出迎えた。桟橋から宿舎まで赤いフェルトを敷き詰め、金屏風100枚で飾り、夜には多くの提灯で煌々と照らした。料理は”安芸蒲刈御馳走一番”と通信使は記録に残している。一方で来訪のたびに施設は更新あるいは増改築を繰り返し、1回の動員人数は武・町・村人あわせて1200人ほど、三之瀬の住民にとっては住居を通信使の宿舎として用いるためこの期間中は周辺の村への仮住まいを強いられ、なにより1回あたり約2万両(現在の価値で約8億円)かかる費用は藩だけでなく三之瀬や周辺沿岸の村々にも都合させたため、通信使来訪は藩にとっても町民にとっても重い負担であった。 寛文12年(1672年)、西廻海運、つまり日本海から瀬戸内海をまわり大阪そして江戸に至る海運ルートが確立した。そのルートは山陽陸地側を通る「地乗り」航路と瀬戸内海中央を通る「沖乗り」航路の2つであり、当時の和船は一枚帆で追い風をはらんで更に潮の流れを利用して航行する構造であったため、暴風雨を避け順風を待つ「風待ちの港」上げ潮や下げ潮を待つ「潮待ちの港」が航路途中に設けられた。三之瀬はその中で地乗り航路の代表的な港となった。三之瀬が交易港としてどのくらいの規模だったかは不明。同じく地乗りである忠海の商人2者の記録によると、三之瀬は取引先相手に入っていないあるいは小さい商いしか行われていない。三之瀬の東にある御手洗は沖乗り航路の代表的な港であり、江戸時代後期になると航行技術向上により沖乗りが主流となっていき御手洗は広島藩随一の交易港となっていくが、そんな御手洗と三之瀬を結ぶ航路も存在していた。
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