栗原電鉄について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/06 02:43 UTC 版)
詳細は「くりはら田園鉄道」を参照 栗原電鉄は1898年、石越から馬車軌道で鉱山の物資を輸送するようになったのが始まりである。当時、宮城県北部地方は道路事情が悪く、交通事情改善のために鉱山の物資輸送をしていた馬車軌道で、一般の貨客の輸送も出来ないだろうかとの声が高まったことが鉄道建設のきっかけとなった。 1918年、栗原軌道株式会社が設立された。当初は馬車鉄道を建設する計画であったが、1919年(大正8年)には蒸気機関車を用いた鉄道に計画を変更し、1921年(大正10年)に石越-沢辺間の8.8キロで営業運転を開始した。なお軌道は762ミリの狭軌であった。1922年(大正11年)には沢辺-岩ヶ先(後の栗駒駅)間の7.8キロが開業したが、旅客収入だけでは経営困難な中、期待していた鉱山関連の貨物輸送は、1923年に発生した鉱山の大火災によりほぼ途絶え、鉱山再開後もトラック輸送が中心となり、厳しい経営が続いた。 栗原軌道株式会社を救ったのが、1934年に三菱鉱業に経営権が移って以降の細倉鉱山の発展であった。鉱山の発展は貨物輸送の増大を招き、すぐにトラック輸送では間に合わなくなり、栗原軌道が貨物輸送の大動脈となった。また鉱山の発展によって、鉱山で働く労働者たちの通勤用の足としての旅客輸送も急増し、1942年には細倉まで延伸され、石越-細倉間の26.6キロが全通した。なお、1941年には会社名が栗原軌道から栗原鉄道に変更になった。 戦後、1947年のキャサリン台風と1948年のアイオン台風によって大きな被害を受けたが、細倉鉱山の貨物輸送の需要が高い栗原鉄道は水害から復旧をした。1950年に電化がなされ、1955年には軌間が762ミリから1067ミリへと改軌された。改軌によって国鉄との貨物直通運転が可能になり、輸送力は大きく高まった。そして改軌が行われた1955年には会社名が栗原電鉄となった。改軌後の1950年代後半から1960年代後半頃、栗原電鉄はその最盛期を迎えた。 1968年(昭和43年)頃から栗原電鉄の利用が減少し始める。これは過疎化の進行により沿線の人口が減少してきたのに加えて、自家用車の普及が進んだことによって鉄道の利用者が減少したことが原因である。そして1971年のニクソンドルショック、それに続く1973年の第一次オイルショックによって細倉鉱山の生産量が減少したのに伴い、貨物輸送も落ち込んだ。細倉鉱山をめぐる情勢は悪化の一途を辿り、1987年には閉山となった。閉山直後に栗原電鉄の貨物扱いが終了し、1993年(平成5年)には第三セクターに経営が移管され、1995年(平成7年)にはくりはら田園鉄道と会社名を改め、これまでの電車運行から気動車運行とし、経営努力を続けたが収入は伸び悩み、2007年廃止となった。
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