栃木・岩鼻の動きとは? わかりやすく解説

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栃木・岩鼻の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 13:45 UTC 版)

出流山事件」の記事における「栃木・岩鼻の動き」の解説

栃木町における行動戦闘の経過については、さまざまな記録錯綜して定説見ない点も多い。以下、長谷川 2015拠って記述し、他の資料必要に応じて注する竹内らは軍議結果栃木町管轄する足利藩栃木陣屋(現・旭町)に数名浪士派遣し軍資金要求をすることにした。一行の中から選抜された、高橋亘高田国次郎、斎藤吉沢富蔵山本鼎の5名が、鍋山村から栃木陣屋向かったまた、道案内として大谷国次加わったともされる。 以上の5名乃至6名は栃木陣屋訪ねて軍資金要求した日向1974 によれば要求額は1,000両であり、陣屋では500両に免じることを求めそのうち100両を明朝渡すと回答して400両を直ち差し出したという。一方 栗原 1943 によると、陣屋は1,500両の調達約束しそのうち500両を即座に支払ったとされている。高橋らは了承して前述脇本陣押田屋に宿泊した翌日以降陣屋を預かる郡奉行善野司はじめとする郷士対策練り資金要求をかわしながら高橋らを接待する一方関東取締出役及び吹上藩有馬家にこの事態通報した岩鼻陣屋詰の関東取締出役木村(機、樾、越、掛などとも)は、12月9日農兵隊を率いて鎮圧のために出動した。同出役渋谷和四郎郎とも)は熊谷出張中だったが、急行し木村合流した高崎藩は同9日付の廻状で、市中老人子供女性寺院避難させるよう指令するとともに、藩境の警備強化した。 翌12月10日幕府足利藩館林藩壬生藩三藩賊徒取締を、宇都宮藩には真岡代官所代官山源七郎)の警備命じた。この鎮圧のために兵を出した藩の数は総計61にのぼるとも言われる栗原 1943 によれば足利藩兵は佐野宇都宮藩兵は茂呂宿(現栃木市岩舟町和泉)、古河藩兵は藤岡町吹上藩兵は皆川口(現栃木市皆川城内町)、壬生藩兵は栃木町館林藩兵は渡良瀬川渡船場伊勢崎藩兵は例幣使街道その他、前橋藩兵は利根川渡船場および中山道各宿、川越藩兵は利根川渡船場その他奥羽街道結城藩兵は鬼怒川筋、下館藩兵は鬼怒川小山宿奥州街道関宿藩兵は栗橋渡船場六浦藩皆川陣屋彦根藩兵は堀米陣屋(現佐野市堀米町)、足利藩兵は栃木陣屋それぞれ固めたという。 また同10日夕刻鉄砲隊750名をはじめとする農兵隊1,000名余(およそ1,200名とも)が佐野天明宿(現佐野市)に到着した取締出役からは渋谷木村のほかに、宮内左右平(啓之助とも)、望月善一郎、馬場渡辺慎次郎らが出動して隊の指揮を執った。渋谷かねてより々から徴発した猟師たちを主体とする鉄砲隊組織し調練をさせていたが、農兵隊はそれに加え渋谷手懐けていて忠義心の深い博徒なども含んで構成されていた。 近傍にも情報広められ沼和田片柳薗部各地自衛的に警備固められた。

※この「栃木・岩鼻の動き」の解説は、「出流山事件」の解説の一部です。
「栃木・岩鼻の動き」を含む「出流山事件」の記事については、「出流山事件」の概要を参照ください。

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