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栃木山守也
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/03 04:44 UTC 版)
栃木山 守也(とちぎやま もりや、1892年2月5日 - 1959年10月3日)は、大正時代に無敵を誇った大相撲の第27代横綱。第22代横綱太刀山と並ぶ「大正の大横綱」。栃木県下都賀郡赤麻村(現在の栃木市藤岡町赤麻)出身。本名:横田(のち中田)守也。
体重103kgで「史上最軽量の横綱」と形容される。身長は172cm。現在でも春日野部屋の力士が「栃」のつく四股名を名乗るのは、部屋の開祖である栃木山にならってのもの。
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- ^ 栃木山に初めて黒星をつけたのは千葉ヶ嵜。のちに大関となる。
- ^ このときのエピソードとして、勝って花道を引き揚げる途中に、栃木山の背中に百円札が2枚貼られ、一晩の祝儀が当時の金額で1万2千円に達したが、場所後に仲間を引き連れて三日で使い果たしたという。
- ^ 太刀山はこれ以前にも大関西ノ海(2代)に敗れる(1912年1月場所8日目)までの43連勝があり、この西ノ海戦での敗北が無ければ栃木山に敗れるまで太刀山は100連勝していたことになる。
- ^ 大関時代が無敗での横綱昇進は、のちに69連勝を達成する横綱双葉山のみ。
- ^ この間、1924年5月場所から1925年5月場所まで3場所番付上では張出横綱だったが、栃木山は当時の正横綱西ノ海(3代)、常ノ花より上位という意味での特別な張出横綱であった。
- ^ これについては3連覇しながら張出のままとされた番付面での不満などの諸説があるが、当人は「力が衰えてから辞めるのは本意ではない。今が華だと思うから」とだけ語った。
- ^ 別の説として、「観衆からハゲだハゲだといわれるのが癪だった」という話もある。「巡業などでハゲと野次が飛ぶと、見るからに不機嫌になった。その鬱憤を稽古でぶつけられるので、こちらはたまったものではなかった」と、弟弟子の常ノ花は証言している。
- ^ 他に1預1休。1休は相手力士休場によるもので、現在でいう不戦勝。なお、この時の休場力士も朝潮だった。
- ^ 不文律の作者常陸山がただ1人認めた例外であった。これは、養父の名跡を受け継ぐものであるし、人物的にも評価されてのことだった。
- ^ 後日談として、周囲から「年寄が勝ってどうするんだ」「相撲をつぶす気か」とひやかされ、本気で叱責された。22代木村庄之助は「春日野さんがあまりにも強すぎた」と述べているが、当時の相撲関係者の間では、実際には現役力士が非常に弱いのではないかとの疑惑が起きた。なお、翌年の同大会では選手権保持者として出場し、トーナメントで勝ち残った玉錦と三番勝負を受けてストレートで敗れたが、その辺の配慮があったのかもしれない。以降、第3回大会からは現役力士のみが出場することになった。
- 1 栃木山守也とは
- 2 栃木山守也の概要
- 3 主な成績
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