明治後期
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1896年、田口米作は『團團珍聞』に『江の島鎌倉長短旅行』の連載を開始した。これは日本で最初の連載漫画とされている。「長」と「短」と名付けられた2人の主人公による観光旅行を描いたこの作品は、特定のキャラクターによる一貫したストーリーを描いたものとして最初の例でもあった。 週刊英字新聞で活躍していたオーストラリア出身の漫画家フランク・A・ナンキベル(英語版)に師事した北澤楽天(北沢楽天)は、師を紹介した福澤諭吉の招きにより1899年に新聞社・時事新報に入社し、同紙で『田吾作と杢兵衛』『灰殻木戸郎』などを連載して、人気を得た。両作は同時代のアメリカ合衆国の新聞漫画形式であったコミック・ストリップにヒントを得た、複数のコマの連続からなる作品で、日本初の試みとされている。また楽天は、従来のポンチ絵と自身の作品を区別するため、このコミック・ストリップの訳語として「漫画」という語を用いるよう時事新報に進言した人物であり、ここで現代的な意味での「漫画」の語用が成立した。 1902年創刊の『平民新聞』を皮切りに、社会主義の影響を強く受けた反政府系メディアを舞台とした激しい政府批判のポンチが多く描かれ、創刊と発禁を繰り返していた。そんな中、楽天は1905年に自身主宰の漫画雑誌『東京パック』(第1次)を創刊。同誌や、同誌の人気を受けて創刊された『大阪パック』『東京ハーピー』『上等ポンチ』などの類似雑誌を舞台とした政治風刺漫画が盛んとなる。その反面、日露戦争に際しての戦時報道に名を借りた、漫画によるプロパガンダも描かれた。 そのかたわら、文芸作品の挿絵として、「コマ画」と総称される、世相風刺を廃した、叙情性の強い一コマ漫画のようなイラスト作品が多く登場し、画集が人気を得た。のちに画家としての評価を得る中村不折、平福百穂、竹久夢二といった人物が「コマ画」を手掛けている。 北澤楽天などの雑誌漫画の人気に関し、同時期に「コマ画」様の銅版画作品を手掛けた画家の山本鼎は、美術雑誌『方寸』に連載した論文記事「現代の滑稽画及び風刺画について」において、それらを「低俗」と断じている。 明治最後の年の1912年、北澤楽天が経営母体の変わった『東京パック』を去り、新たに『楽天パック』を創刊したほか、舞台美術家だった岡本一平が『朝日新聞』の専属となる。岡本は上記「コマ画」風の滑稽画に文を添えた「漫画漫文」スタイルで時代の寵児となる。それまではもっぱら風刺の手段と見なされていた漫画が、大衆娯楽として認識されていく過程において、岡本の活動は大きな役割を果たした。
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明治後期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/18 08:17 UTC 版)
川の流れが緩やかな越後平野下流部では、明治期、川蒸気船が盛んであった。しかし、1897年(明治30年)、沼垂(ぬったり)から一ノ木戸(三条市)間の鉄道が開業し、大正期に鉄道網が広がると、交通の中心は川蒸気船から鉄道に移っていった。 明治30年代に新津油田の機械掘削が本格化。大正期に新津町は「石油の町」として栄えて国内最大の油田となり、新潟市・沼垂町では石油産業が発達した。 信濃川下流の根本的な洪水対策である大河津分水は、江戸時代からの懸案であった。分水工事は1909年(明治42年)に国営で着工された。
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明治後期(青化法)
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採掘された鉱石を粉砕機で直径25ミリメートル以下に粉砕する。 鉱石粒を槽に投入しシアン化カリウムと水銀を加えさらに粉砕する。 沈殿槽に導き砂を沈殿させる。シアン化カリウムは回収され再利用される。 さらに粉砕しシアン化カリウムを追加し、圧縮空気などを用いて混合する。 濾過した後に水銀を加えて金のアマルガムを得る。 アマルガムを釜へ入れて加熱乾留し金を得る。水銀は冷却器で回収され再利用される。
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