にほんゆうしゅうき〔ニホンイウシウキ〕【日本幽囚記】
日本幽囚記
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ゴローニンは帰国後、日本での捕囚生活に関する手記を執筆し、1816年に官費で出版された。三部構成で、第1部・第2部が日本における捕囚生活の記録、第3部が日本および日本人に関する論評である。ケンペルの『日本誌』が出版されたのははるか以前のことで、日本について書かれた西洋人の報告記は待望久しかった。『日本幽囚記』は、ロシア人が書いた初の日本人論でもあった。 極東での任務の遂行にあたり、ゴロヴニンは既刊書から日本研究を行っていたらしい。『日本幽囚記』には、ケンペル、シャルルヴォア、モンテスキュー、ヴォルテール等の日本人論の影響が認められる。日本人の忠孝観を示すエピソードとして、ゴロヴニンは「景清物」と呼ばれる平家の残党の伝承を紹介しているが、これはケンペルの『日本誌』からの引用である。国生み神話や除福伝説への言及にも、ケンペルの書の影響が認められる。キリスト教という宗教倫理を礎として発展した西洋法と比して、戦国法の踏襲や中国の法制を参照して独自の発展を遂げた日本の法律は西洋人にとって理解し難いものであった。モンテスキューの『法の精神』は日本の刑法に対して辛辣な批判を加えているが、ゴロヴニンはその手記の中で、自らが囚われの身であったにも拘わらず、加害者である日本人の露骨な憎悪の中においてさえ、その行動を理解し赦すという公平さを示した。 幕末にロシア正教会の司祭として来日したニコライ・カサートキンが同書を読んで日本への関心を高めたと伝えられている。そして同書はドイツ語、フランス語、英語他の各国語に翻訳され、日本に関する最も信頼のおける史料として評価された。尚、ドイツ語版以降の翻訳には、訳者のシュルツ(Carl Johann Schultz)がその作業にあたってゴロヴニンの自筆原稿を参照したため、ロシア国内では検閲のために削除された文章がそのままの形で含まれている。日本ではドイツ語版を重訳したオランダ語版(第1部・第2部のみ)が1821年にオランダ商館長により江戸にもたらされ、翌年から馬場貞由(翻訳中に死去)、杉田立卿、青地林宗が翻訳、高橋景保が校訂し、1825年(文政8年)に本編12巻、付録2巻から成る『遭厄日本記事』として出版された。同書は淡路島に帰っていた高田屋嘉兵衛も入手し読んでいたことが判明している。明治27年(1894)には『日本幽囚実記』として邦訳された。 ゴローニンとともに監禁された海軍士官のムール少尉は、獄中で『模烏児(モウル)獄中上表』(ゴローニンらの職務内容や今までの活動、ロシアやヨーロッパの国情などについて)を書き、ロシア通詞村上貞助らが日本語に翻訳したが、この上表とゴローニンの『日本幽囚記』には多くの相違があったため、書物奉行兼天文方高橋景保らはムールの『獄中上表』をオランダ語に訳してヨーロッパで出版する計画を推し進めた(シーボルト事件で高橋が失脚したため頓挫し、ムールはロシア帰国後自殺したため『日本幽囚記』の記述のみが史実として広まった)。
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