日本の取組
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「テクノロジーアセスメント」の記事における「日本の取組」の解説
日本でテクノロジーアセスメントが紹介されたのは1969年の11月に科学技術と経済の会のメンバーを中心に組織された産業予測特別調査団が訪米し、テクノロジーアセスメントという言葉を持ち帰ってきたことから始まる。その翌年から科学技術会議、産業構造審議会、政府審議機関などにおいて取り上げられ、同時に渥美和彦、唐津一、岸田純之助、白根禮吉、平松守彦、牧野昇、松下寛、増田米二という民間有識者からなる八人委員会でもTAについての提言がなされている。また、1970年4月に京都で開かれた国際未来学会においてもアメリカ国立科学財団(NSF)のロバート・W・ラムソンがTAに関する発表を行っている。1972年に科学技術庁からいくつかの事例研究結果が発表されている。それらを機に日本の民間企業やシンクタンクに広がり、テクノロジーアセスメントの取組が始められた。 シンクタンクでは、未来工学研究所が、科学技術庁が実施した事例研究のいくつかを受託しているほか、発足当初の基幹研究テーマとして「日本型科学技術開発システムの基本設計」(1971-74年)や「開放系技術と社会的受容定着条件の検討」(1978年)など、技術の社会的次元を対象とした科学技術政策研究を実施している。また、野村総合研究所も事例研究を受託しているほか、1972年には『テクノロジー・アセスメントと企業』と題した報告書を編集している。 経済同友会が1973年3月に発表した「社会と企業の相互信頼の確立を求めて」と題する提言では、公害・環境破壊の深刻化や消費者運動の高まり、土地や一部商品への投機的行為等から企業行動のあり方が厳しく問い直されているなかで、企業の社会的責任を果たすべく、「自らの科学技術開発過程の企画、研究開発、使用段階を通じて、体系的にテクノロジー・アセスメントを実施する企業内組織の確立を図る」と宣誓している。1975年にかけて、技術同友会や経済団体連合会も同様の提言を行い、同時期に通産省産業技術審議会テクノロジー・アセスメント部会では民間によるTA推進を検討していたが、中小企業がTAを実施することによる負担の増大を懸念する中小企業庁や生活産業局の反対に遭い、実施の義務づけを見送った。日本では公害や石油危機に意識が移った1974年頃をピークにして、民間企業によるTA活動は衰退していったとみられる。 科学技術庁計画局では、行政による縦割り型のTA活動に限界を感じ、1977年から78年後半にかけて米国テクノロジーアセスメント局のような議会TA機関の創設を目指した。だが、議員は議会で活動を引き受けることは念頭になく、国会調査局も議員の反応が鈍いため及び腰であったとされる。結局折衝は物別れに終わり、科技庁では同時期を境にTAの事例研究から手を引いた。 環境庁では発足後初めて著した1972年の環境白書において、農薬や有鉛ガソリン、PCBなどに対する環境保全面からTAの必要性が高まっているとし、日米のTAに対する取り組みを紹介して日本における活動の活発化を期待した。1972年から環境アセスメントの制度化が本格化していくなかで、1973年の環境白書ではTAと環境アセスメントとの区別を行っている。1974年の環境白書では新エネルギーの開発に際して環境保全の観点からTAを実施していく必要性を挙げているが、通産省の取り組みと重複していたこともあり、以後環境庁においてTAについての言及は見られなくなる。
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