帝政ロシア期
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「スモレンスク県 (ロシア帝国)」の記事における「帝政ロシア期」の解説
スモンレンスク県は1708年に設置された。スモンレンスク県は、ピョートル1世による帝政ロシア最初の県制(グベールニヤ制)制定時の8県のうちの1つである。県内にはスモレンスク、ロスラヴリ、ドロゴブージ、ヴャジマ、ベルィー、ポゴレノエ・ゴロディシチエ(ru)、ズブツォフ、スターリツァ、セルペイスク、コゼリスク、メシチョフスク、モサリスク、チェカリン、ボリソヴォ・ゴロディシチエ(ru)、ペレムィシュリ、ヴォロトィンスク、オドエフの17市(ゴロド)と8郡(ウエズド)が存在した。 1726年にはスモレンスク郡(ru)、ロスラヴリ郡(ru)、ドロゴブージ郡(ru)、ヴャジマ郡(ru)、ベルィー郡(ru)の5郡に整理された。 1775年、ナメストニチェストヴォ制が導入され、スモレンスク・ナメストニチェストヴォ(ru)となった。この際に、グジャトスク郡(ru)、エリニャ郡(ru)、カスプリャ郡(後にドゥホフシチナ郡(ru)に改編)、クラスヌィー郡(ru)、ポレチエ郡(ru)、ルポソヴォ郡(後にユフノフ郡(ru)に改編)、スィチョフカ郡(ru)の7郡が設置された。1796年に再びスモレンスク・グベールニヤ / 県 となった。一時的な郡の統廃合と再置を経つつも、1802年以降、帝政ロシア末期の1918年まで12郡(1726年設置の5郡 + 1775年設置の7郡)で固定された。なお、1812年の祖国戦争(ナポレオン1世のロシア遠征)によりスモレンスク県は甚大な被害を被っている。 スモレンスク県の下位区分(1802年 - 1918年)郡行政中心地面積(露里²)郷全域人口(人)1859年郷全域人口(人)1897年行政中心地人口(人)1897年県全体 スモレンスク 49212.2 152,5279 12,0895 ベルィー郡(ru) ベルィー 9674.8 10,6605 16,5159 6952 ヴャジマ郡(ru) ヴャジマ 2722.7 7,8471 10,5502 1,5645 グジャトスク郡(ru) グジャトスク 3447.9 11,5366 9,8266 6324 ドロゴブージ郡(ru) ドロゴブージ 3357.5 7,4390 10,4730 6486 ドゥホフシチナ郡(ru) ドゥホフシチナ 3709.2 7,9441 12,4286 3109 エリニャ郡(ru) エリニャ 4319.0 10,4044 13,7864 2441 クラスヌィー郡(ru) クラスヌィー(ru) 2403.8 6,4576 10,2257 2753 ポレチエ郡(ru) ポレチエ 5096.8 7,5542 13,1936 5688 ロスラヴリ郡(ru) ロスラヴリ 5503.6 10,5286 18,8244 1,7776 スモレンスク郡(ru) スモレンスク 2824.2 8,4242 14,5155 4,6699 スィチョフカ郡(ru) スィチョフカ 2558.9 9,4303 10,0737 4773 ユフノフ郡(ru) ユフノフ 3593.8 10,0915 12,1143 2249 [註]・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル。・グジャトスク:現ガガーリン、ポレチエ:現デミドフ。 民族比率(1897年)郡ロシア人ベラルーシ人ユダヤ人ポーランド人県全体 91.6 % 6.6 % … … ベルィー郡 99.0 % … … … ヴャジマ郡 98.3 % … … … グジャトスク郡 99.2 % … … … ドロゴブージ郡 99.4 % … … … ドゥホフシチナ郡 98.3 % … … … エリニャ郡 96.7 % 2.7 % … … クラスヌィー郡 8.7 % 90.0 % … … ポレチエ郡 97.0 % 1.1 % … … ロスラヴリ郡 97.8 % … 1.3 % … スモレンスク郡 91.1 % 1.2 % 3.1 % 2.6 % スィチョフカ郡 99.7 % … … … ユフノフ郡 98.8 % … … …
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帝政ロシア期
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1772年、第1次ポーランド分割によって帝政ロシア領が拡大すると、ノヴゴロド県内のプスコフ・プロヴィンツィヤ並びにヴェリーキエ=ルーキ・プロヴィンツィヤ(ru)に、新たに獲得・新設したドヴィナ・プロヴィンツィヤ(ru)、ポロツク・プロヴィンツィヤ(ru)を加えたプスコフ県が発足した。また、同年末には、当初はモギリョフ県に区分されていたヴィテプスク・プロヴィンツィヤが編入された。なお、発足当時の県都はオポーチカに置かれていた。 1776年の第2次ポーランド分割の後、プスコフ県南部はポロツク県として分離し、ノヴゴロド県からポルホフ郡(ru)、グドフ郡(ru)が編入された。また、行政区改編の際にプスコフが県都となった。 1777年、エカテリーナ2世の行政改革により、地方のグベールニヤがナメストニチェストヴォに改称されたため、名称がプスコフ・ナメストニチェストヴォとなり、その下位区分は10郡(ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru)、グドフ郡、ルーガ郡(ru)、オポーチカ郡(ru)、ポルホフ郡、プスコフ郡(ru)、ノヴォルジェフ郡(ru)、トロペツ郡(ru)、ホルム郡(ru))に整理された。その後1781年にグドフ郡、ルーガ郡がサンクトペテルブルク県に編入され、その翌年にはペチョールィ郡が分離・新設された。 1796年、ナメストニチェストヴォ制が廃止され、再びプスコフ県が設置された。この改編の際に、ペチョールィ郡、ノヴォルジェフ郡、ホルム郡が廃止・統合されるが、1802年にノヴォルジェフ郡、ホルム郡は再設置された。最終的にプスコフ県は8郡となり、帝政ロシア崩壊まで変更はなかった。 プスコフ県の下位区分(1802年 - 1919年)郡行政中心地面積(露里²)郷全域人口(人)行政中心地人口(人)県全体 プスコフ 37971.3 112,2317 7.2598 ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru) ヴェリーキエ・ルーキ 4 173.3 12,3779 8466 ノヴォルジェフ郡(ru) ノヴォルジェフ 3247.8 11,3769 2838 オポーチカ郡(ru) オポーチカ 4069.9 13,5654 5735 オストロフ郡(ru) オストロフ 4357.0 16,1877 6268 ポルホフ郡(ru) ポルホフ 6045.9 17,5853 5551 プスコフ郡(ru) プスコフ 5142.2 22,6756 3,0478 トロペツ郡(ru) トロペツ 5222.0 9,6472 7368 ホルム郡(ru) ホルム 5713.2 8,8157 5894 [註]・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル。・人口は1897年の統計による。 民族比率(1897年)郡ロシア人エストニア人ラトビア人ユダヤ人フィン人県全体 94.7% 2.3% … … … ヴェリーキエ・ルーキ郡 96.7% … … … … ノヴォルジェフ郡 97.9% … … … … オポーチカ郡 98.5% … … … … オストロフ郡 96.5% … 1.8% … … ポルホフ郡 97.8% … … … … プスコフ郡 87.5% 7.8% 1.7% … … トロペツ郡 92.7% 3.0% 1.4% 1.7% … ホルム郡 93.4% 2.5% 1.1% … 1.1%
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帝政ロシア期
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1802年3月11日、帝政ロシア元老院の法令によって、白ロシア県を二分割(もう片方はモギリョフ県)して設置された。なお、白ロシア県はポロツク県とモギリョフ県を合併させて作られた県であったが、これが再度分割されたことになる。発足時は12の郡(ウエズド)から成っていたが、1886年にスラジ郡(ru)が廃止され、以降、帝政ロシアの崩壊(ロシア革命は1917年)まで11郡体制であった。また、19世紀末のその下位区分の総数は、市(ゴロド):12、メステチコ:41、セロ:19750であった。 帝政ロシア末期のヴィテプスク県には以下の11郡(ウエズド)が属していた。 ヴィテプスク県の下位区分(1802年 - 1919年)郡行政中心地面積(露里²)郷全域人口(人)行政中心地人口(人)県全体 ヴィテプスク 38649.5 148,9246 21,5919 ヴィテプスク郡(ru) ヴィツェプスク 2861.1 17,7432 6,5871 ゴロドク郡(ru) ハラドク(ru) 3107.1 11,2033 5023 ドリッサ郡(ru) ドルィサ 2568.9 9,7083 4238 レペリ郡(ru) レペリ 3401.6 15,6706 6284 ポロツク郡(ru) ポラツク 4186.7 14,1841 2,0294 ドヴィンスク郡(ru) ダウガフピルス 3860.4 23,7023 6,9675 リュツィン郡(ru) Ludza(ru) 4600.1 12,8155 5140 レジツァ郡(ru) レーゼクネ 3581.9 13,6445 1,0795 ヴェリジ郡(ru) ヴェリジ 3900.0 10,0079 1,2193 ネヴェリ郡(ru) ネヴェリ 3397.7 11,0394 9349 セーベジ郡(ru) セーベジ 3184.0 9,2055 4326 [註]・行政中心地の背景色は、その自治体が現在所属する国を示す(黄:ベラルーシ、青:ラトビア、赤:ロシア)。・郡名はロシア語に基づく。また、黄:ベラルーシ語、青:ラトビア語、赤:ロシア語に基づく。・面積は平方ベルスタ(露里)。1ベルスタ = 約1067メートル・人口は1897年の統計による。・斜体は行政中心地の各市に加え、スラジ(ru)の2市を含む県内の市の総数。・ドルィサは後に改称し、現ヴェルフニャズヴィンスク。 民族比率(1897年)郡ベラルーシ人ラトビア人ロシア人ユダヤ人ポーランド人ドイツ人県全体 53.0% 17.7% 13.3% 11.7% 3.4% ヴィテプスク郡 51.1% 2.2% 20.1% 22.3% 3.2% ゴロドク郡 83.6% 10.7% 4.7% ドリッサ郡 86.2% 1.6% 9.1% 2.4% レペリ郡 82.0% 1.7% 11.6% 4.0% ポロツク郡 73.1% 1.2% 11.1% 12.1% 2.0% ドヴィンスク郡 13.8% 39.0% 15.3% 20.0% 9.1% 1.8% リュツィン郡 20.5% 64.2% 7.1% 4.9% 2.2% レジツァ郡 5.4% 57.9% 23.9% 7.4% 4.8% ヴェリジ郡 85.7% 2.5% 1.3% 9.8% ネヴェリ郡 84.0% 7.1% 7.4% セーベジ郡 47.1% 47.1% 3.8% 1.5%
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帝政ロシア期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 13:35 UTC 版)
帝政ロシア期の1775年、エカテリーナ2世の行政改革(ru)によって地方組織が改組された。すなわち、ピョートル1世以降、グベールニヤ - プロヴィンツィヤ - ウエズドの三層構成となっていたが、ナメストニチェストヴォ - ウエズドの二層構成となった。エカテリーナ2世は人口と面積に基づいて、23のグベールニヤを53のナメストニチェストヴォに再編し、ナメストニチェストヴォ内には10から12のウエズドが含まれていた。また各ウエズドの男性人口は2万から3万人だった。この後、エカテリーナ2世による地理的区分(行政区画)はロシア革命まで維持された(ただし行政単位としてのナメストニチェストヴォは1796年にパーヴェル1世によって廃止された)。以降、1929年までウエズドはグベールニヤの構成単位であり、行政・司法・財政の最小単位となった。 1889年より、各ウエズドにはゼムストヴォが設置され、地方自治が行われた。刑事は初めヴォエヴォダの管轄だったが、後にイスプラヴニク(ru)(帝政ロシア期の郡警察署長)の管轄下に移行した。
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