帝政ロシア期とは? わかりやすく解説

帝政ロシア期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/08 10:01 UTC 版)

スモレンスク県 (ロシア帝国)」の記事における「帝政ロシア期」の解説

スモンレンスク県は1708年設置された。スモンレンスク県は、ピョートル1世による帝政ロシア最初県制グベールニヤ制)制定時の8県のうちの1つである。県内にはスモレンスクロスラヴリドロゴブージヴャジマ、ベルィー、ポゴレノエ・ゴロディシチエ(ru)、ズブツォフスターリツァセルペイスクコゼリスクメシチョフスクモサリスクチェカリン、ボリソヴォ・ゴロディシチエ(ru)、ペレムィシュリ、ヴォロトィンスク、オドエフ17市(ゴロド)と8郡(ウエズド)が存在した1726年にはスモレンスク郡(ru)、ロスラヴリ郡(ru)、ドロゴブージ郡(ru)、ヴャジマ郡(ru)、ベルィー郡(ru)の5郡に整理された。 1775年ナメストニチェストヴォ制が導入され、スモレンスク・ナメストニチェストヴォ(ru)となったこの際に、グジャトスク郡(ru)、エリニャ郡(ru)、カスプリャ郡(後にドゥホフシチナ郡(ru)に改編)、クラスヌィー郡(ru)、ポレチエ郡(ru)、ルポソヴォ郡(後にユフノフ郡(ru)に改編)、スィチョフカ郡(ru)の7郡が設置された。1796年に再びスモレンスク・グベールニヤ / 県 となった一時的な郡の統廃合と再置を経つつも、1802年以降帝政ロシア末期1918年まで12郡(1726年設置の5郡 + 1775年設置の7郡)で固定された。なお、1812年祖国戦争ナポレオン1世ロシア遠征)によりスモレンスク県は甚大な被害被っている。 スモレンスク県の下位区分1802年 - 1918年)郡行政中心地面積露里²)郷全域人口(人)1859年全域人口(人)1897年行政中心地人口(人)1897年全体 スモレンスク 49212.2 152,5279 12,0895 ベルィー郡(ru) ベルィー 9674.8 10,6605 16,5159 6952 ヴャジマ郡(ru) ヴャジマ 2722.7 7,8471 10,5502 1,5645 グジャトスク郡(ru) グジャトスク 3447.9 11,5366 9,8266 6324 ドロゴブージ郡(ru) ドロゴブージ 3357.5 7,4390 10,4730 6486 ドゥホフシチナ郡(ru) ドゥホフシチナ 3709.2 7,9441 12,4286 3109 エリニャ郡(ru) エリニャ 4319.0 10,4044 13,7864 2441 クラスヌィー郡(ru) クラスヌィー(ru) 2403.8 6,4576 10,2257 2753 ポレチエ郡(ru) ポレチエ 5096.8 7,5542 13,1936 5688 ロスラヴリ郡(ru) ロスラヴリ 5503.6 10,5286 18,8244 1,7776 スモレンスク郡(ru) スモレンスク 2824.2 8,4242 14,5155 4,6699 スィチョフカ郡(ru) スィチョフカ 2558.9 9,4303 10,0737 4773 ユフノフ郡(ru) ユフノフ 3593.8 10,0915 12,1143 2249 [註]・面積平方ベルスタ露里)。1ベルスタ = 約1067メートル。・グジャトスク:現ガガーリン、ポレチエ:現デミドフ民族比率1897年)郡ロシア人ベラルーシ人ユダヤ人ポーランド人全体 91.6 % 6.6 % … … ベルィー郡 99.0 % … … … ヴャジマ郡 98.3 % … … … グジャトスク郡 99.2 % … … … ドロゴブージ郡 99.4 % … … … ドゥホフシチナ郡 98.3 % … … … エリニャ郡 96.7 % 2.7 % … … クラスヌィー郡 8.7 % 90.0 % … … ポレチエ郡 97.0 % 1.1 % … … ロスラヴリ郡 97.8 % … 1.3 % … スモレンスク郡 91.1 % 1.2 % 3.1 % 2.6 % スィチョフカ郡 99.7 % … … … ユフノフ郡 98.8 % … … …

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帝政ロシア期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/04 01:11 UTC 版)

プスコフ県」の記事における「帝政ロシア期」の解説

1772年第1次ポーランド分割によって帝政ロシア領が拡大すると、ノヴゴロド県内のプスコフ・プロヴィンツィヤ並びにヴェリーキエ=ルーキ・プロヴィンツィヤ(ru)に、新たに獲得新設したドヴィナ・プロヴィンツィヤ(ru)、ポロツク・プロヴィンツィヤ(ru)を加えたプスコフ県発足したまた、同年末には、当初モギリョフ県区分されていたヴィテプスク・プロヴィンツィヤが編入された。なお、発足当時県都オポーチカ置かれていた。 1776年第2次ポーランド分割の後、プスコフ県南部ポロツク県として分離しノヴゴロド県からポルホフ郡(ru)、グドフ郡(ru)が編入された。また、行政区改編の際にプスコフ県都となった1777年エカテリーナ2世行政改革により、地方グベールニヤナメストニチェストヴォ改称されたため、名称がプスコフ・ナメストニチェストヴォとなり、その下位区分10郡(ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru)、グドフ郡、ルーガ郡(ru)、オポーチカ郡(ru)、ポルホフ郡、プスコフ郡(ru)、ノヴォルジェフ郡(ru)、トロペツ郡(ru)、ホルム郡(ru))に整理された。その後1781年グドフ郡、ルーガ郡がサンクトペテルブルク県に編入され、その翌年にはペチョールィ郡が分離新設された。 1796年ナメストニチェストヴォ制が廃止され、再びプスコフ県設置された。この改編の際に、ペチョールィ郡、ノヴォルジェフ郡、ホルム郡が廃止・統合されるが、1802年ノヴォルジェフ郡、ホルム郡は設置された。最終的にプスコフ県は8郡となり、帝政ロシア崩壊まで変更はなかった。 プスコフ県下位区分1802年 - 1919年)郡行政中心地面積露里²)郷全域人口(人)行政中心地人口(人)全体 プスコフ 37971.3 112,2317 7.2598 ヴェリーキエ・ルーキ郡(ru) ヴェリーキエ・ルーキ 4 173.3 12,3779 8466 ノヴォルジェフ郡(ru) ノヴォルジェフ 3247.8 11,3769 2838 オポーチカ郡(ru) オポーチカ 4069.9 13,5654 5735 オストロフ郡(ru) オストロフ 4357.0 16,1877 6268 ポルホフ郡(ru) ポルホフ 6045.9 17,5853 5551 プスコフ郡(ru) プスコフ 5142.2 22,6756 3,0478 トロペツ郡(ru) トロペツ 5222.0 9,6472 7368 ホルム郡(ru) ホルム 5713.2 8,8157 5894 [註]・面積平方ベルスタ露里)。1ベルスタ = 約1067メートル。・人口1897年統計よる。 民族比率1897年)郡ロシア人エストニア人ラトビア人ユダヤ人フィン人全体 94.7% 2.3% … … … ヴェリーキエ・ルーキ郡 96.7% … … … … ノヴォルジェフ郡 97.9% … … … … オポーチカ郡 98.5% … … … … オストロフ郡 96.5% … 1.8% … … ポルホフ郡 97.8% … … … … プスコフ郡 87.5% 7.8% 1.7% … … トロペツ郡 92.7% 3.0% 1.4% 1.7% … ホルム郡 93.4% 2.5% 1.1% … 1.1%

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帝政ロシア期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 16:04 UTC 版)

ヴィテプスク県」の記事における「帝政ロシア期」の解説

1802年3月11日帝政ロシア元老院法令によって、白ロシア県二分割(もう片方モギリョフ県)して設置された。なお、白ロシア県ポロツク県モギリョフ県合併させて作られた県であったが、これが再度分割されたことになる。発足時12の郡(ウエズド)から成っていたが、1886年にスラジ郡(ru)が廃止され以降帝政ロシア崩壊ロシア革命1917年)まで11体制であったまた、19世紀末のその下位区分総数は、市(ゴロド):12メステチコ41セロ:19750であった帝政ロシア末期ヴィテプスク県には以下の11郡(ウエズド)が属していた。 ヴィテプスク県下位区分1802年 - 1919年)郡行政中心地面積露里²)郷全域人口(人)行政中心地人口(人)全体 ヴィテプスク 38649.5 148,9246 21,5919 ヴィテプスク郡(ru) ヴィツェプスク 2861.1 17,7432 6,5871 ゴロドク郡(ru) ハラドク(ru) 3107.1 11,2033 5023 ドリッサ郡(ru) ドルィサ 2568.9 9,7083 4238 レペリ郡(ru) レペリ 3401.6 15,6706 6284 ポロツク郡(ru) ポラツク 4186.7 14,1841 2,0294 ドヴィンスク郡(ru) ダウガフピルス 3860.4 23,7023 6,9675 リュツィン郡(ru) Ludza(ru) 4600.1 12,8155 5140 レジツァ郡(ru) レーゼクネ 3581.9 13,6445 1,0795 ヴェリジ郡(ru) ヴェリジ 3900.0 10,0079 1,2193 ネヴェリ郡(ru) ネヴェリ 3397.7 11,0394 9349 セーベジ郡(ru) セーベジ 3184.0 9,2055 4326 [註]・行政中心地背景色は、その自治体が現在所属する国を示す(黄:ベラルーシ、青:ラトビア、赤:ロシア)。・郡名ロシア語に基づく。また、黄:ベラルーシ語、青:ラトビア語、赤:ロシア語に基づく。・面積平方ベルスタ露里)。1ベルスタ = 約1067メートル人口1897年統計よる。斜体行政中心地の各市に加え、スラジ(ru)の2市を含む県内の市の総数。・ドルィサは後に改称し、現ヴェルフニャズヴィンスク民族比率1897年)郡ベラルーシ人ラトビア人ロシア人ユダヤ人ポーランド人ドイツ人全体 53.0% 17.7% 13.3% 11.7% 3.4% ヴィテプスク郡 51.1% 2.2% 20.1% 22.3% 3.2% ゴロドク郡 83.6% 10.7% 4.7% ドリッサ郡 86.2% 1.6% 9.1% 2.4% レペリ郡 82.0% 1.7% 11.6% 4.0% ポロツク郡 73.1% 1.2% 11.1% 12.1% 2.0% ドヴィンスク郡 13.8% 39.0% 15.3% 20.0% 9.1% 1.8% リュツィン郡 20.5% 64.2% 7.1% 4.9% 2.2% レジツァ郡 5.4% 57.9% 23.9% 7.4% 4.8% ヴェリジ郡 85.7% 2.5% 1.3% 9.8% ネヴェリ郡 84.0% 7.1% 7.4% セーベジ郡 47.1% 47.1% 3.8% 1.5%

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帝政ロシア期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 13:35 UTC 版)

ウエズド」の記事における「帝政ロシア期」の解説

帝政ロシア期の1775年エカテリーナ2世行政改革(ru)によって地方組織が改組された。すなわち、ピョートル1世以降グベールニヤ - プロヴィンツィヤ - ウエズド三層構成となっていたが、ナメストニチェストヴォ - ウエズド二層構成となったエカテリーナ2世人口と面積基づいて23グベールニヤ53ナメストニチェストヴォ再編しナメストニチェストヴォ内には10から12ウエズド含まれていた。また各ウエズド男性人口は2から3万人だった。この後エカテリーナ2世による地理的区分行政区画)はロシア革命まで維持された(ただし行政単位としてのナメストニチェストヴォ1796年パーヴェル1世によって廃止された)。以降1929年までウエズドグベールニヤ構成単位であり、行政・司法財政最小単位となった1889年より、各ウエズドにはゼムストヴォ設置され地方自治が行われた。刑事初めヴォエヴォダ管轄だったが、後にイスプラヴニク(ru)(帝政ロシア期の郡警察署長)の管轄下に移行した

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