エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
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エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、ロシア語: Екатерина II Алексеевна, ラテン文字転写: Yekaterina II Alekseyevna (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。
- ^ a b ロシア語版のタイトルは「アンナ・ペトロヴナ(エカチェリーナ2世の娘)」とされており「(ピョートル3世の娘)」ではない。Infoboxの父親欄は公式のピョートル3世となっている。実際にはスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)との娘だが、ピョートル3世がエカチェリーナから求められて認知した。
- ^ グリゴリー・グリゴリエヴィチ・オルロフとの息子。
- ^ 中野京子『名画で読み解く ロマノフ家12の物語』光文社、2014年、96頁。ISBN 978-4-334-03811-3。
- ^ a b ロシア語版では父親をスタニスワフ・ポニャトフスキ伯爵(後のポーランド国王)かグリゴリー・オルロフ公爵のどちらかだとしている。
- ^ a b 英語版では1761年に生まれた、エカチェリーナとオルロフの娘だとされている。
- “They had two illegitimate children, Yelizaveta and Aleksey, who were born in 1761 and 1762"
- ^ なお、プロイセンとの攻守同盟、教会の国有化政策はエカチェリーナの治世でも続けられた。
- ^ しかし、実際にはエカチェリーナ2世は前王朝のリューリク朝のトヴェリ大公アレクサンドル・ミハイロヴィチの直系の子孫の一人であり、彼の父親はロシア正教の聖人であり、「全ルーシ(ロシア)の大公」を自称した最初の人物である。故に、彼女はロマノフ朝の血統ではないものの、ロシアのツァーリの皇統の血を引く人物でもあり、ルーシやロシアの高名な歴史的人物の先祖を多く持つエカチェリーナ2世は全くロシアに関わりの無い人物と言う訳では無い。
- ^ A・ゲルツェン『ロシヤにおける革命思想の発達について』岩波文庫、1950年、99-100頁。
- ^ かなり信憑性の高い史料であるエカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡(モスクワのロシア国立公文書館に所蔵、ソビエト崩壊後の1997年に歴史学者ヴャチェスラフ・ロパーチン博士によって『エカチェリーナ2世とG・A・ポチョムキンの個人往復書簡集』(Екатерина II и Г. А. Потемкин. Личная переписка)として公表されたЕкатерина Вторая и Г. А. Потемкин «Личная переписка 1769-1791» - エカチェリーナとポチョムキンが交わした1162通もの往復書簡の全文を掲載。(PDF版))からもそういう事実があった可能性が窺えるが、今も研究が続いている。
- ^ “若宮丸漂流民の概略”(石巻若宮丸漂流民の会)2021年1月12日閲覧
- ^ a b 「エカテリーナ2世像撤去 帝政ロシア皇帝 オデーサ当局、露に反感」『読売新聞』朝刊2022年12月30日(国際面)2023年1月18日閲覧
エカテリーナ2世
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/29 04:00 UTC 版)
プロイセンから来たゾフィーことエカリーナは当時、帝政ロシアの女帝エリザヴェータからフランスの文化を知らないドイツの田舎モノ呼ばわりされる。同じドイツ人で後の「ほら吹き男爵」こと、ミュンヒハウゼンはエカテリーナに知恵を貸すのだが。
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エカテリーナ2世
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エカテリーナ2世は、ポチョムキンの死後程なくして、タヴリーダ宮殿を買い上げた上で、建築家のフョードル・ヴォルコフに命じて夏の離宮(英語版ではタウンハウス townhouse)に改装するように命じた。建築監督となったヴォルコフは、東翼に劇場、西翼に礼拝堂を設けた。庭園には、ヴォルコフの設計によるアドミラル・パヴィリオン、庭師の館、温室、オランジェリーOrangeryを建設したほか、宮殿に付随する橋や鉄製のフェンスの設計を手がけた。 タヴリーダ宮殿の外観は、内部インテリアの豪壮さに比較して、非常に禁欲的である。ドームホール(エカテリーナ・ホール)は、ロシアでも大きいもののひとつでイオニア式の列柱によって飾られている。冬の庭園の名称で知られる室内庭園は木や植物を室内に植えたものであり、来客の驚嘆の的となった。こうして完成したタヴリーダ宮殿は、エカテリーナ2世時代におけるロシア古典主義建築の一つの頂点を成した。しかし、エカテリーナ2世の没後、この宮殿には冬の時代が訪れる。新帝パーヴェル1世は、母帝とポチョムキンに対して深い怨恨を抱いていたため、1779年宮殿を騎馬隊の宿舎とし、エカテリーナ・ホールを馬場に改装した。その後の改装によってインテリアもエカテリーナ2世時代に比べて質が落ちた。
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