帝政ロシア征服後の用例
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 10:21 UTC 版)
19世紀に中央アジアがロシア帝国の植民地となると、ロシア人の間でも、「サルト」は、トルキスタンの住民を指す一般的な呼称として広く用いられるようになった。19世紀のロシア帝国の文献では、「サルト」は、フェルガナ、タシケント、チムケント、シルダリヤ州南部のテュルク系住民(およびサマルカンド、ブハラ周辺の住民の一部)を指す用語として使われた。 ロシアの東洋学者の間でも、「サルト」の語源について多くの議論がなされた。バルトリドは、「サルト」の起源を遊牧民による定住民に対する呼称であるとし、一方で、オストロウモフは、「サルト」は民族集団ではなく、職能集団であるとした。 こうした用語の混乱から、1897年に行われたロシア帝国のセンサスでは、フェルガナ州では人口の大半がサルト人で占められた一方、隣接するサマルカンド州では、サルト人は少数派となり、ウズベク人が大半を占める結果となった。こうしたことから、ロシア帝国における「サルト」と「ウズベク」の区分はたいへん曖昧なものであったといえる。 ロシア革命後の1924年に、ソビエト政権は、「サルト」の呼称を植民地支配の残滓であるとして廃止しただけでなく、これまで「ウズベク」や「サルト」と呼ばれてきた中央アジアのテュルク系定住民を全て「ウズベク」として識別し、新たな「ウズベク民族」を創生した。その一方、新生のウズベク・ソビエト社会主義共和国では、従来の「サルト語」であるカルルク系テュルク語が「ウズベク語」という名前で公用語となった。
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