山陽鉄道時代
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三菱の荘田平五郎から社長就任の要請があり、1887年(明治20年)山陽鉄道(現在のJR山陽本線の前身)創設時の社長となる。建設に当たっては、瀬戸内海航路との競争を意識して、「線路の勾配を100分の1以内(10パーミル以内)にせよ」との方針を打ち出し、「百分の一」「ワン・ハンドレッド」とあだ名された。しかし90年不況の影響で経営不振となり、工事がストップしたまま、1891年(明治24年)に社長を辞任する。1892年(明治25年)、社長に就任した松本重太郎は借入金と社債発行により資金調達の道をつけ、三原~広島間の敷設を1894年(明治27年)までに完成させた。
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山陽鉄道時代
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「山陽本線優等列車沿革」の記事における「山陽鉄道時代」の解説
1888年(明治21年)11月 現在の山陽本線を建設・運営した私鉄である「山陽鉄道」が、初の開業区間である兵庫駅 - 明石駅間を開通させる。 1889年(明治22年)9月 山陽鉄道は神戸駅 - 兵庫駅間を開業させ、官営による現在の東海道本線と連絡するようになった。 1894年(明治27年)10月 山陽鉄道が、神戸駅 - 広島駅間(この年6月に開業)に日本初の長距離急行列車を運転開始。この当時は急行料金は徴収せず、普通列車同様乗車券のみで乗車できた。神戸 - 広島の所要時間は上下列車それぞれ8時間47分・56分であった。 1895年(明治28年)10月 急行列車は官営鉄道東海道本線に乗り入れ、関西の発着駅を京都駅とする。(後には大阪駅発着の列車も設定) 1899年(明治32年)5月 当時昼行・夜行あわせて4往復あった急行列車のうち1往復に日本初となる食堂車を連結。 1900年(明治33年)4月 夜行急行列車1往復に、日本初となる寝台車を連結。 1901年(明治34年)5月 山陽鉄道が神戸駅 - 下関駅間を全通させる。4往復の直通急行列車が設定され、うち1往復は「最急行」と呼ばれ特に高速で走った。神戸 - 下関間の最急行の所要時間は上下それぞれ12時間35分・40分であった。 1903年(明治36年)2月 最急行は神戸 - 下関間の所要時間を上下それぞれで11時間30分・20分にまで短縮、日露戦争前の最高記録となった。 1904年(明治37年)7月 日露戦争勃発の影響により、急行列車が全廃。 1905年(明治38年)8月 官営鉄道の東海道本線と乗り入れ、新橋駅 - 下関駅間直通の急行列車を登場させる。しかしながら時期尚早だったのか、3ヶ月で廃止となった。新橋 - 下関の所要時間は上下それぞれ35時間16分・5分だった。 1906年(明治39年)4月 「最急行」が復活、しかし神戸 - 下関間の所要時間は13時間30分前後と戦前よりだいぶ遅くなった。山陽鉄道、鉄道国有法の公布により国有化。
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