山陽電気への改称と拡大
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山口電灯は大井川発電所建設に続き、1916年11月、大井川第二発電所の建設許可を得た。それ以外にも都濃郡・厚狭郡の工場地帯に対する電力供給とそのための発電所建設を企画する。事業拡大資金の調達と、設立時から資本金15万円のままで自己資本比率が低くなったのを改善すべく、山口電灯は一挙に200万円へと増資することとなった。この規模の増資を地元山口だけでまかなうことができないため、山口電灯は県外の平賀敏・坂野鉄次郎らに資本参加を求めた。増資は1916年11月30日の臨時株主総会で議決され、同時に社名が山口電灯から「山陽電気株式会社」へと改められた。加えて役員が改選され、葛原猪平(取締役には残留)に代わって平賀が社長に就任している。 社名変更後、山陽電気は周辺事業者の統合を始め、1917年(大正6年)の1年間だけで小郡電灯(2月13日)・都濃電気(3月9日)・大津電灯(6月25日)の3社からそれぞれ事業を買収(都濃電気のみ合併)した。統合事業者の概要は以下の通り。 小郡電灯株式会社 山口町の南西、吉敷郡小郡町(現・山口市)の事業者。地元有力者らにより1911年8月資本金5万円で設立され、翌1912年4月24日に開業した。電源は当初自社のガス力発電所(出力50キロワット)を用意していたが、1916年6月より山口電灯から60キロワットの受電を開始し、発電設備は予備とした。同年末時点では小郡町および吉敷郡内の8村を供給区域として電灯3320灯を供給していた。葛原の働きかけにより、1915年6月山口電灯へと6万5000円で事業を売却すると決定した。 都濃電気株式会社 瀬戸内海側の都濃郡徳山町(現・周南市)の事業者。徳山では1906年から電気事業起業の動きがあったが、錦川水系での水力発電所建設が流域住民の反対で頓挫し、火力発電に切り替えて1909年9月「徳山電灯」の名で事業許可が申請された。それに対する許可は6年後、1915年7月のことである。また申請時の発起人は地元の野村恒造らであったが許可時には葛原猪平に交代している。葛原は1916年1月会社が発足するとそのまま社長に就任した。 徳山は大戦景気期に岩井商店系の大阪鉄板製造(後の日新製鋼)や日本曹達工業(現・トクヤマ)などが進出して急速に工業化された地域である。都濃電気ではまず大阪鉄板製造と供給契約を締結。同社との関係から太華村小踏にて火力発電所建設に着手した。また山陽電気との合併直前の1917年3月、ガス事業者の徳山瓦斯から5万4000円で事業を買収する。同社は1912年9月設立・翌年5月開業であり、電灯に先駆け徳山町でガス灯をつけていた。 大津電灯株式会社 日本海側の大津郡仙崎町(現・長門市)の事業者。1912年3月資本金5万円で設立され、1912年10月10日に開業した。小郡電灯と同様ガス力発電所(出力47キロワット)で開業したのち、1916年10月に山口電灯からの受電(75キロワット)へと電源を転換している。供給区域は開業時から仙崎町と深川村・三隅村で、1916年末時点では電灯1606灯を供給していた。1915年7月、山口電灯との間で3万4000円で事業を売却する契約を締結した。 都濃電気の合併で建設を引き継いだ徳山発電所は、合併後1917年6月に完成した(出力1,000キロワット、翌年以降2,000キロワット)。完成を機に徳山町での配電も始まり、町内ではガス灯に代わって電灯がついた。発電所はこのほか、前述の大井川第二発電所(出力200キロワット)が1918年(大正7年)8月に完成している。
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