専売局時代
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第一次世界大戦が終結し、1920年に戦後恐慌が生じると台湾総督府でも歳入不足が深刻な問題となった。既に専売となっていたアヘンや樟脳などに加えて酒も対象とする事が検討され、総督の田健治郎の判断によって、蒸留酒や日本酒など酒類全てを製造から販売まで専売の対象とする、世界的にも珍しい制度が1922年7月1日から始まった。工業用アルコールの製造と、設立後間もない大正製酒の事業を除き、全ての酒造業者が台湾総督府専売局に統合された。 当時の台湾には約200の零細業者があり、1922年の時点で31の業者が醸造清酒および再製清酒を年間9,000石(1,620kL)ほど製造していた。これらの業者には、工場などの財産に対して政府から補償金が公債により支払われた。また、当時は日本本土から白鹿や白鶴酒造、菊正宗酒造など関西系のメーカーを中心に年間20,000石(3,600kL)近くが台湾に出荷されていた。専売局は設備の良い工場を選定して酒造事業を継承し、清酒や糖蜜酒、焼酎など10種類に品目を絞った上で清酒の製造に3工場を充てた。これには、大正製酒の台中工場、埔里社酒造の埔里工場、宜蘭振拓の花蓮港工場が、地域性や設備の状態から選ばれている。 専売局の清酒はアルコール度数17度の「福禄」と同16度の「万寿」だったが、冷蔵庫内で作った清酒醪にエタノールを添加した福禄の品質は極めて評判が悪かった。専売局の中沢亮治と鈴木梅太郎が個人的に親しかった事もあり、理研酒の技術を導入して専売局は1926年から合成清酒の試作を始め、同年から理研酒を添加した「福禄二号」の販売が始まった。添加用の理研酒は年間20,000 - 30,000石(3,600 - 5,400kL)に達し、第二次世界大戦中には50,000石(9,000kL)にもなった。なお、1933年には万寿にも理研酒を加えるようになるなど、当時の台湾の清酒の品質は高くなかったが、専売局が清酒製造を始めてから日本本土からの移入量は約半分まで激減している。 台湾における高級な清酒の需要は限定的だったため、専売局は福禄の品質を向上させながら低廉な価格で大量に供給する事を求められた。このため、冷却用の電気を台湾電力から安価に供給される協定を結び、1930年には安価な台湾産米を使用した「瑞光」の開発に成功した。また1938年には内地米を用いた最高級清酒の「凱旋」を発売して好評を得たため、翌1939年には板橋に工場を新設して増産した。しかし、1941年に太平洋戦争が始まると原料供給が困難になり製造が中止されている。
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