専売局時代とは? わかりやすく解説

専売局時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 05:57 UTC 版)

台湾の日本酒」の記事における「専売局時代」の解説

第一次世界大戦終結し1920年戦後恐慌生じると台湾総督府でも歳入不足が深刻な問題となった。既に専売となっていたアヘン樟脳などに加えて酒も対象とする事が検討され総督田健治郎判断によって、蒸留酒日本酒など酒類全て製造から販売まで専売対象とする、世界的にも珍しい制度1922年7月1日から始まった工業用アルコール製造と、設立後間もない大正製酒の事業除き全ての酒造業者台湾総督府専売局統合された。 当時台湾には約200零細業者があり、1922年時点31業者醸造清酒および再製清酒年間9,000石(1,620kL)ほど製造していた。これらの業者には、工場などの財産に対して政府から補償金公債により支払われた。また、当時日本本土から白鹿白鶴酒造菊正宗酒造など関西系のメーカー中心に年間20,000石(3,600kL)近く台湾出荷されていた。専売局設備良い工場選定して酒造事業継承し清酒糖蜜酒焼酎など10種類品目絞った上で清酒製造に3工場充てた。これには、大正製酒の台中工場埔里酒造埔里工場宜蘭振拓の花蓮工場が、地域性設備の状態から選ばれている。 専売局清酒アルコール度数17度の「福禄」と同16度の「万寿」だったが、冷蔵庫内で作った清酒醪にエタノール添加した福禄品質極めて評判悪かった専売局中沢亮治と鈴木梅太郎個人的に親しかった事もあり、理研酒の技術導入して専売局1926年から合成清酒試作始め同年から理研酒を添加した福禄二号」の販売始まった添加用の理研酒は年間20,000 - 30,000石(3,600 - 5,400kL)に達し第二次世界大戦中には50,000石(9,000kL)にもなった。なお、1933年には万寿にも理研酒を加えるようになるなど、当時台湾清酒品質高くなかったが、専売局清酒製造始めてから日本本土からの移入量は約半分まで激減している。 台湾における高級な清酒需要限定的だったため、専売局福禄品質を向上させながら低廉価格大量に供給する事を求められた。このため冷却用電気台湾電力から安価に供給される協定を結び、1930年には安価な台湾産米使用した瑞光」の開発成功した。また1938年には内地米用いた最高級清酒の「凱旋」を発売して好評得たため、翌1939年には板橋工場新設して増産した。しかし、1941年太平洋戦争が始まると原料供給困難になり製造中止されている。

※この「専売局時代」の解説は、「台湾の日本酒」の解説の一部です。
「専売局時代」を含む「台湾の日本酒」の記事については、「台湾の日本酒」の概要を参照ください。

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