江戸人物事典 |
天海僧正 (てんかいそうじょう)
| 1536〜1643 (天文5年〜寛永20年) |
|
【天台宗の僧】 家康の日光山改葬、上野寛永寺創建を具申、黒衣の宰相と呼ばれた。 |
| 天台宗の僧。陸奥国に生まれ、比叡山・園城寺などで修行した。関ヶ原の戦い後、徳川家康の帰依を受け、幕府の宗教行政に参画。二代将軍秀忠のとき、家康の遺骸を日光山に改葬、また上野に東山寛永寺を江戸の鬼門鎮護の目的で建立した。不忍池は琵琶湖に見立てられ、弁天島が置かれた。三代家光のときには、目黒不動をはじめ、五色不動を指定するなど、さらにその権勢をふるった。黒衣の宰相と呼ばれた。 |
年(和暦) |
||
| ●1543年 (天文12年) | ■種子島に鉄砲伝来 | 7才 |
| ●1555年 (弘治元年) | ■川中島合戦 | 19才 |
| ●1560年 (永禄3年) | ■桶狭間の戦い | 24才 |
| ●1563年 (永禄6年) | ■三河の一向一揆 | 27才 |
| ●1573年 (天正元年) | ■室町幕府滅亡 | 37才 |
| ●1575年 (天正3年) | ■長篠の戦い | 39才 |
| ●1580年 (天正8年) | ■イギリス商船平戸に来航 | 44才 |
| ●1582年 (天正10年) | ■本能寺の変 | 46才 |
| ●1584年 (天正12年) | ■小牧・長久手の戦い | 48才 |
| ●1587年 (天正15年) | ■バテレン追放令 | 51才 |
| ●1588年 (天正16年) | ■刀狩令 | 52才 |
| ●1590年 (天正18年) | ■家康江戸城に入る | 54才 |
| ●1592年 (文禄元年) | ■文禄の役(〜1596) | 56才 |
| ●1597年 (慶長2年) | ■慶長の役 | 61才 |
| ●1600年 (慶長5年) | ■関が原の戦い | 64才 |
| ●1603年 (慶長8年) | ■江戸幕府開府 | 67才 |
| ●1604年 (慶長9年) | ■朱印船貿易始まる | 68才 |
| ●1607年 (慶長12年) | ■第1回朝鮮通信使来る | 71才 |
| ●1609年 (慶長14年) | ■オランダ人に通商許可 | 73才 |
| ●1612年 (慶長17年) | ■幕府直轄領に禁教令 | 76才 |
| ●1612年 (慶長17年) | ■駿府の銀座を江戸に移す | 76才 |
| ●1614年 (慶長19年) | ■大阪冬の陣 | 78才 |
| ●1615年 (元和元年) | ■大阪夏の陣 | 79才 |
| ●1617年 (元和3年) | ■日光東照宮社殿竣工 | 81才 |
| ●1617年 (元和3年) | ■吉原遊郭の開設許可 | 81才 |
| ●1624年 (寛永元年) | ■スペイン船の来航禁止 | 88才 |
| ●1629年 (寛永6年) | ■女舞・女歌舞伎の禁止 | 93才 |
| ●1637年 (寛永14年) | ■島原の乱 | 101才 |
| ●1639年 (寛永16年) | ■ポルトガル船の来航禁止 | 103才 |
| ●1641年 (寛永18年) | ■平戸商館を長崎出島に移す | 105才 |
| ●1643年 (寛永20年) | ■田畑永代売買禁止令 | 107才 |
人物名 |
年齢差 |
|
| ・本多 正信 | 1538年〜1616年 (天文7年〜元和2年) | -2 |
| ・徳川 家康 | 1542年〜1616年 (天文11年〜元和2年) | -6 |
| ・服部 半蔵 | 1542年〜1596年 (天文11年〜慶長元年) | -6 |
ウィキペディア |
天海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/07 02:22 UTC 版)
(天海僧正 から転送)
| 天海 | |
|---|---|
| 天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日) | |
喜多院山門前にある銅像
|
|
| 法名 | 天海 |
| 院号 | 智楽院 |
| 諡号 | 慈眼大師 |
| 尊称 | 南光坊天海 |
| 生地 | 陸奥国 |
| 宗派 | 天台宗 |
| 寺院 | 寛永寺 |
天海(てんかい、天文5年(1536年)? - 寛永20年10月2日(1643年11月13日))は、安土桃山時代から江戸時代初期の天台宗の僧。南光坊天海、智楽院とも呼ばれる。大僧正。諡号は慈眼大師。徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与した。
目次 |
生涯
天海の出自
三浦氏の一族である蘆名氏の出自で、陸奥国に生まれたとされる。その根拠は、『東叡山開山慈眼大師縁起』に「陸奥国会津郡高田の郷にて給ひ。蘆名修理太夫平盛高の一族」と記されていることである。しかし同時にそこには「俗氏の事人のとひしかど、氏姓も行年わすれていさし知ず」とあり、天海は自らの出自を弟子たちに語らなかったとある。また、「将軍義澄の末の御子といへる人も侍り」と足利将軍落胤説も同時に載せられている。
須藤光暉『大僧正天海』では諸文献の比較検討により、蘆名氏の女婿である船木兵部少輔景光の息子であると結論づけている[1]。
天海の生年
生年もはっきりしていないが、長命であったことは確かであるとされる。
小槻孝亮の日記『孝亮宿祢日次記』には、天海が寛永9年4月17日(1632年6月4日)に日光東照宮薬師堂法華経万部供養の導師を行った記事があるが、天海はこの時97歳(数え年)であったという。これに従うと生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳となる。このほか永正7年(1510年)(上杉将士書上)、享禄3年(1530年)、天文11年(1542年)、天文23年(1554年)といった説がある。しかしこれらは比較的信頼度が低い史料が元であるとされている[2]。須藤は12の生年説を比較検討した上で、天文5年説を妥当としている[1]。
前半生
龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたという。元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、葦名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされる。
喜多院住持
天海としての足跡が明瞭となるのは、無量寿寺北院に来てからである。この時、江戸崎不動院の住持も兼任していた。浅草寺の史料によれば北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたとする。これからは、天海が関東に赴いたのはそもそも家康のためであったことがうかがえる。
豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことである。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607年)に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。ただし、辻達也は天海が家康に用いられたのは慶長14年(1609年)からだとしている[2]。この年、朝廷より権僧正の僧位を受けた。
また慶長17年(1612年)に無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め関東天台の本山とする。慶長18年(1613年)には家康より日光山貫主を拝命し、本坊・光明院を再興する。大坂の役の発端となった方広寺鐘銘事件にも深く関わったとされる[3]。
後半生
元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託す。家康死後には神号を巡り金地院崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。天海が2代将軍となった徳川秀忠の諮問に対し明神は豊国大明神として豊臣秀吉に対して送られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定され家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。
その後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
紫衣事件などで罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ている。これは輪王寺宮が特赦を願い出る慣例のもととなったという[2]。堀直寄、柳生宗矩と共に沢庵宗彭の赦免にも奔走した。寛永20年(1643年)に108歳で没したとされる。その5年後に、朝廷より慈眼大師号を追贈された。
墓所は栃木県日光市。
慶安元年(1648年)には、天海が着手した『寛永寺版(天海版)大蔵経』が、幕府の支援により完成した。
廟所
天海僧正に関係した商品
- 天海僧正の予言書波浪島の刺客【中古】afbブックセンターいとう
- 【中古】afb【古本】天海僧正の予言書 波浪島の刺客/早坂倫太郎古本市場オンライン 楽天市場店
- 天海僧正の予言書波浪島の刺客【中古】afbブックセンターいとう