大正期から戦前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 18:01 UTC 版)
1914年(大正3年)12月20日の東京駅開業に伴い、烏森駅を新橋駅に改称、それまでの新橋駅は貨物専用駅の汐留駅に改称され、鉄道創業時(1872年(明治5年)10月14日の新橋駅)からの旧・旅客線は、単線で品川駅までの貨物専用の支線(以下:汐留支線)となった。大正時代中期になると貨物輸送量は空前の増加となり、1912年(明治45年・大正元年)度に約3,300万tであった年間全国貨物輸送量は、1926年(大正15年)度には約7,500万tと2倍以上に増加、特に、明治末期から工業化と商業集積が始まった首都圏の貨物輸送量は爆発的に増加、首都圏貨物輸送体制の改善は鉄道省の大きな課題となり、さらに、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災発生の影響で震災復興が加味されたため、大正時代前期に開業した田端操車場や品川操車場の他、昭和前期に東北貨物線などが整備された。東海道貨物線関係においても、品川駅 - 横浜駅間で貨物線を腹付け平行にて客貨分離を計画したが、市街地化した東海道本線の線路端の用地確保が困難となり、なおかつ横浜地区の線路再構成や新鶴見操車場(現・新鶴見信号場)の建設も相まって通過地が大きく異なる別線を建設、1929年(昭和4年)8月21日に品川駅 - 新鶴見操車場 - 鶴見駅間の支線(品鶴線)が開業した。 一方横浜地区の線路再構成は、まず1915年(大正4年)12月30日に高島駅 - 程ヶ谷駅(現・保土ケ谷駅、現名称は1931年(昭和6年)10月1日から)間が開業、1917年(大正6年)6月17日に鶴見駅 - 高島駅間が開業して、鶴見駅 - 程ヶ谷駅間における東海道本線の貨物列車のパイパスルート(高島線)が完成した。さらに、程ヶ谷駅から先は、1927年(昭和2年)8月から1928年(昭和3年)3月20日までに、段階的に貼り付け線増の形で、平塚駅まで貨物線が完成した。その後、1929年(昭和4年)8月21日の前述の品鶴線の開業によって鶴見駅 - 程ヶ谷駅間に貼り付け線増による複々線化が完成、汐留駅 - 平塚駅間の貨物線完全別線化が完了した。これに伴い、高島線は同年9月16日に高島駅 - 程ヶ谷駅間が廃止され、鶴見駅 - 高島駅間となった。 また、川崎地区においても貨物線が建設され、1918年(大正7年)5月1日に川崎駅 - 浜川崎駅間の貨物支線および浜川崎駅が開業した。その後、1930年(昭和5年)3月25日に南武鉄道によって尻手駅 - 浜川崎駅間の支線(現・南武線浜川崎支線)が開業、東海道貨物線とは八丁畷駅南方 - 浜川崎駅で単線並列となった。1943年(昭和18年)9月14日には川崎新町駅に隣接して小田操車場が開業した。 汐留駅周辺および東京都芝浦地区では、1930年(昭和5年)8月1日に汐留駅 - 芝浦駅間が開業、1935年(昭和10年)2月11日に汐留駅 - 東京市場駅間(以下:東京市場線)が開業した。 なお、上記の状態は、戦後数十年間しばらく続いた。
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