大名復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 19:04 UTC 版)
「関ヶ原の戦いの戦後処理」の記事における「大名復帰」の解説
関ヶ原の敗戦で一旦は改易されたものの、後に1万石以上の大名として復帰した武将が存在する。西軍に加担した大名・武将は約170名を数えるが、大名に復帰できたのは以下の11名である。その理由は様々だが、立花宗茂のように武勇を惜しまれ、かつ豊臣方への接近を防止する目的や、新庄直頼のように家康の囲碁相手で個人的に親密だったなどが理由として挙げられている。合戦後の1603年、江戸幕府が開かれた年に滝川雄利・立花宗茂・丹羽長重がそれぞれ大名として新領地を与えられ、その後1622年(元和7年)まで行われた。概して開戦前と比べ石高は少ない傾向だが、織田信雄、木下利房のように開戦前より石高が増加した者、新庄直頼のように維持できた者もいる。特に織田信雄は石高が開戦前に比べて倍以上になった上に大和の国主格待遇も与えられているが、これは関ヶ原の合戦後に織田信長の嫡孫である織田秀信が西軍に味方し、改易の末に子を残さず死亡してしまった事で嫡流が断絶してしまった織田家への配慮があったと思われる。また、立花宗茂は旧領であった筑後柳河に、開戦前とほぼ同じ石高で21年ぶりに復活するという快挙を遂げている。これは当時二代将軍であった徳川秀忠の信任によるところが大きい。 武将名旧領石高(石)合戦での動向新領石高(石)備考岩城貞隆 陸奥磐城平 120,000 在国し観望 信濃川中島 10,000 1616年新封。嫡男・吉隆の代に出羽亀田2万石へ加増。 織田信雄 大和国内 18,000 大坂で傍観 大和宇陀・上野小幡 50,000 1615年新封。合戦前よりも石高が増加。大和国の国主格待遇も付与。 木下利房 若狭高浜 20,000 北国口守備 備中足守 25,000 大坂の陣の功により父家定の旧領を1615年に新封として賜る。合戦前よりも石高が増加。 来島長親 伊代来島 14,000 在国し観望 豊後森 14,000 福島正則・本多正信の取り成しで1601年新封。開戦前の石高を維持。 新庄直頼 摂津高槻 30,000 伊賀上野城占拠 常陸麻生 30,000 1604年新封。開戦前の石高を維持。 相馬義胤 陸奥中村 60,000 在国し観望 陸奥中村 60,000 本多正信・伊達政宗の取り成しで、嫡男・利胤に1604年再封。 高橋直次 筑後内山 18,000 山城伏見城攻撃 筑後三池 10,000 1614年に5,000石で新封。1622年嫡男・種次の代に5,000石加増され大名に復帰。 滝川雄利 伊勢神戸 22,000 伊勢神戸城守備 常陸片野 20,000 1603年新封。 立花宗茂 筑後柳河 132,000 近江大津城攻撃 陸奥棚倉 10,000 1603年新封。1621年旧領である柳河10万9,000石に加増転封される。 丹羽長重 加賀小松 125,000 前田利長と交戦 常陸古渡 10,000 1603年新封。1627年陸奥白河10万700石に加増の後、嫡男・光重の代に陸奥二本松へ転封。 蒔田広定 伊勢雲出 10,000 伊勢口守備 備中・河内国内など 10,000 浅野幸長の取り成しにより1603年新封。
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