政宗喚問~鎮圧(天正19年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 04:47 UTC 版)
「葛西大崎一揆」の記事における「政宗喚問~鎮圧(天正19年)」の解説
明けて天正19年(1591年)1月1日、政宗からの人質を預かった氏郷は、名生城を出て会津へと帰還した。10日には相馬領に三成が到着し、政宗に対して秀吉からの上洛命令を伝え、氏郷・木村親子らを伴って帰京した。2月4日、上洛した政宗に対する査問が行われると、政宗は一揆を煽動した証拠とされる密書は偽造されたものであり、本物の自分の書状は花押の鶺鴒の目の部分に針で穴を開けていると主張した。秀吉はこの主張を認め、政宗に改めて一揆を鎮圧するように命じ、援軍として豊臣秀次・徳川家康にも出陣を命じた。 5月に米沢へと戻った政宗は、6月14日に再び出陣して本格的に一揆の掃討に取りかかる。しかし、一揆勢の烈しい抵抗に遭い浜田景隆・佐藤為信ら重臣が相次いで討ち死にを遂げるなどしたが、7月4日に寺池城が陥落すると残った一揆勢も降伏して、ようやく一揆は終息する。8月14日、政宗は桃生郡須江山に一揆の主立った者らを呼び寄せると、泉田重光・屋代景頼に命じて皆殺しにし12月7日、秋保氏一族の馬場定重・頼重父子に命じて小野城主・長江勝景(葛西晴信・相馬義胤からみて義兄)を殺害させた。 領主・木村吉清は一揆発生の責任を問われて改易となり、吉清は氏郷を頼ってその客将となった。木村領の葛西・大崎13郡は政宗に与えられることになったため、前年に大崎義隆へ下された朱印状は反故となり、大崎氏の大名復帰は叶わなかった。9月23日、秀吉から葛西・大崎13郡の検地と城砦改修とを命じられていた家康は、仕置を終えて政宗に新領土を引き渡した。政宗は岩手沢城を岩出山城と改名し、慶長6年(1601年)に青葉城を築いて移るまで居城とした。
※この「政宗喚問~鎮圧(天正19年)」の解説は、「葛西大崎一揆」の解説の一部です。
「政宗喚問~鎮圧(天正19年)」を含む「葛西大崎一揆」の記事については、「葛西大崎一揆」の概要を参照ください。
- 政宗喚問~鎮圧のページへのリンク