政宗小田原参陣前の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:27 UTC 版)
政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に参陣しようとしていた天正18年(1590年)、義姫自身が毒入りの膳を政宗に差し出す事件が起こったとされてきた。政宗は毒を口にしたが、解毒剤のおかげで難を逃れたという。この件により母子の対立は頂点に達し、政宗は弟・小次郎を自ら斬殺したと伝わる。ただし、この毒殺未遂の根本史料は伝わっておらず、話が詳細に伝わるのは江戸時代の記録「治家記録」などによるもので、治家記録では食事をする前に御膳番衆が企みを見抜き、政宗はそのまま帰宅したとされているが、これについても否定的な見解があり、この混乱期の政情については諸説あるのが現状である。 政宗の小次郎斬殺後も、義姫は伊達家に留まり母子は親しく文の遣り取りをしていた。彼女は文禄2年(1593年)には、朝鮮で従軍中の政宗へ、現金三両と和歌(あきかぜの たつ唐舟に 帆をあげて 君かえりこん 日のもとの空)を添付した手紙を届ける。政宗はこの書状に感激、母への進物を探し回り、ようやく朝鮮木綿を入手すると「ひとたび拝み申したく念望にて候」としたためた書状を送った。
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