政宗死後の若林古城
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後を継いだ伊達忠宗によって若林城は廃止され、家臣も若林の屋敷を引き払った。その後の城は若林古城と呼ばれたが、小泉古城、あるいは単に古城と呼ばれることもあった。城内の建物は仙台城二の丸に移された。焼火間、虎間、御納戸、茶道部屋、御鑓間、上台所、御風呂屋、大台所、小姓間、御用間、肴部屋、御鷹部屋、算用屋が移築という。第5次発掘調査で見つかった建物のうち2つが、二の丸の絵図に描かれた大台所と焼火間(たきびのま)にあてはまるのではないかという指摘があり、台所については大きさが絵図のものと一致することが確認されている。また、家臣の茂庭氏が門を拝領して仙台屋敷に立てたという史料、仙台城下の町人である泉屋庄衛門の屋敷が若林城の黒書院の移築であるとする史料 がある。 史料を欠くが、瑞鳳殿の御供所が若林城の書院の移築、松音寺の山門も移築と言い伝えられている。これらのうち現存するのは松音寺の門だけである。 城跡には、若林薬園が置かれ、人参などの薬草が栽培された。第5次発掘調査で若林城の廃絶後に作られた畑の畝跡らしいものが見つかっており、薬草畑の跡ではないかとされる。設置年は不明で、史料に見える最初は、延宝8年(1680年) である。この頃は全国的に和薬の生産が発展しつつあり、貞享元年には(1684年)には城下の商人北村屋権七が薬種仲間を代表して江戸で種を買い付け、仙台藩の了解のもとに国分生巣原と小泉村に土地を借りて薬園を開いた。享保4年(1719年)に商人たちは藩営の若林薬園の利用を願い出た。これについては、小泉村の薬園を若林薬園と同一視し、商人が開いたものを藩が召し上げたとする説もある。結局若林薬園は開放されなかったようで、元文3年(1738年)に藩士の松田平蔵が人参を植えつけ、短くとも寛延2年(1749年)までは薬園・菜園守として勤務していた。歴代藩主の中では伊達宗村が薬園に関心を寄せ、三度訪れて人参の様子を見た。 後の地誌によれば、寛永年間(1624年 - 1644年)の末に、若林御米蔵が表通に石かけ屋根で建てられたという。安政2年(1855年)には古城御蔵に籾千俵を入れたという史料がある。これは城外の施設であろう。 また、琵琶首(花壇)にあった鉄砲薬蔵が、延宝元年(1652年)の火災をきっかけに若林に移転した。若林焔硝蔵では貞享4年(1687年)10月30日に火災があり、甚だ鳴動した。鉄砲薬1600貫目が焼け、火薬製造中の人足8人が死んだ。2人は死骸も見つからなかった。焔硝蔵についても、御牒蔵と同じく城外の施設ではないかとする説がある。 城の土手には立て札があり、土手の往還と内側への進入を禁じていた。城下町は、一部が仙台に組み入れられたほかは田畑になった。 寛保元年(1741年)5月に、仙台藩は江戸幕府に対し、仙台城下若林という所にある下屋敷の堀の修理を願い出た。南の堀には水がたたえられ、農業用のため池になっているが、北の堀が近年崩れたのでやはり用水のために補修したいという内容である。城や要害と異なり修理に幕府の許可を要するものではないが、工事が幕府の不審を招くことを恐れて届け出たものであった。当時その下屋敷には屋敷守一両人がおかれているだけであった。幕府の許可はすぐに下り、寛保3年(1743年)11月9日に北堀の普請が完了した。完成の前年12月に若林城は小泉村から仙台の飛び地に移された。堀の修理は安政3年(1856年)にも実施され、2千人が普請にあたったという話があった。 。
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