外交と紛争とは? わかりやすく解説

外交と紛争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 14:18 UTC 版)

ヨウェリ・ムセベニ」の記事における「外交と紛争」の解説

政権獲得後もムセベニは NRA総司令官地位維持したケニアモイ政権当初新政権ケニア反政府勢力支援している疑惑持った緊張高まり1987年末には国境のブシアで軍事的な衝突のない睨み合い起った内陸国インド洋へアクセスモンバサ港に依存しているウガンダにとってはいかなる国境封鎖経済打撃となった。 オボテ政権へゲリラ闘争の間 NRA国籍問わず戦闘参加する兵士集めた。オボテ政権による亡命ルワンダ人への迫害は彼らの NRA 加入弾みになった。ムセベニ政権始め数年間には数千人のルワンダ人がその地位維持していた。1990年9月30日の夜NRAの4千人ルワンダ兵士密かに兵舎離れ、他の部隊と共にルワンダ領へ侵入したルワンダ愛国戦線 (RPF) はNRA内部細胞用いて多数成員行動させていたことが後に判明している。 RPFジュベナール・ハビャリマナ政権反対するルワンダ亡命者組織で、ムセベニ及びNRM結び付いていた。アンコーレ人のヒマであったムセベニは、ハム仮説により「ウガンダツチ」として自らをツチと結びつけ、同胞苦難の中で慰め得られるように中心的な役割果たしたRPF指導者中にはフレッド・ルウィゲマやポール・カガメがいたが、彼らはNRM創設メンバーでもあった。侵攻当初、ムセベニとハビャリマナは共に米国での国連サミット参加していた。このRPF動員タイミングは、RPF止めるには遅すぎる、となるまでムセベニが現地離れていられるように図られたものだという説がある。ルワンダ軍はベルギーフランスザイール軍の助力得てようやく RPF撃退した1990年9月侵攻関し、ムセベニはこれを共謀したかまたは軍の統制失っているか、もしくはその両方であるとして非難された。RPFルワンダウガンダ国境に跨るヴィルンガ山地溶け込んだ。ハビャリマナ政権ウガンダRPF領土後方基地として使わせていると非難しウガンダ国境付近砲撃したウガンダ反撃した広く信じられているが、これは多分RPF拠点を守ることになった思われる。この戦闘で6万人以上が家を逐われた。両国間で安全保障条約結ばれ両国お互い国境沿いの治安維持について協力することで合意したが、再起した RPF1992年までにルワンダ北部多く占領した。 ムセベニは1991年及び1992年アフリカ統一機構 (OAU) の議長選出された。 1994年4月ハビャリマナとブルンジシプリアン・ンタリャミラ大統領乗った飛行機キガリ国際空港上空撃墜され80万人以上が殺害されルワンダ虐殺引き金となったRPFキガリ制圧しウガンダ軍の協力得て政権握った1995年4月ウガンダ神の抵抗軍 (LRA) への支援理由スーダンとの外交関係絶ったスーダン逆にスーダン人民解放軍への支援非難した。これら二つグループは共に穴だらけの国境行き来して行動している疑いがあった。ウガンダスーダン不和1988年には始まっていた。アミン政権及び第二次オボテ政権時代にはウガンダ難民南部スーダン保護求めた1986年NRA政権を握るとこれら難民は西ナイル戦線や後の LRA に加わるようになった長期間にわたりムセベニ政権スーダンウガンダ安全にとって最大脅威看做した。

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ヨウェリ・ムセベニ」の記事における「外交と紛争」の解説

ルワンダ虐殺後、ルワンダ新政権当時ザイールであったコンゴ民主共和国逃れた国軍兵士脅かされていると感じた。彼らはモブツ支援受けていた。これに対しルワンダ政府とムセベニはローラン・カビラ反政府勢力モブツ倒し権力を握るように支援した1998年ルワンダウガンダ今度は元は味方であったカビラを倒すために再びコンゴ侵攻した。この決定はムセベニと軍高官のみにより行われ文官及び1995年憲法定められ議会承認得たものではなかった。ムセベニは侵攻従事させる将校説得した。「我々はルワンダ人の始めた戦争完結させねばならぬ。そして我ら大統領時間を割いて我々がコンゴ取分があると納得させた」とある上級将校語ったウガンダ介入表向き理由ルワンダ軍と協力してDRCでのバニャムレンゲ対する「大量虐殺」を止めることであったカビラ国境閉鎖することができず、また民主勢力同盟 (ADF) がコンゴ後方基地としてウガンダ活動するのを許した実際にはUPDFはコンゴウガンダ国境には配備されず、戦線国境から1,000Km以上(600マイル以上)西で反政府勢力コンゴ解放運動支援していた。このためウガンダ軍は ADF主要都市フォート・ポータル侵入し、西ウガンダ刑務所接収するのを防ぐことができなかった。 ルワンダウガンダ部隊コンゴ豊かな鉱物資源木材略奪したウガンダアフリカ危機対応構想中心に据えるべく軍事援助行っていた 米国クリントン政権ウガンダへのすべての軍事援助停止した。カガメとムセベニの関係悪化緊張に伴い2000年にはルワンダ軍とウガンダ軍がコンゴキサンガニ3度砲火を交えた。ムセベニはイトゥリ紛争にも介入し非難浴びた2005年12月19日国際司法裁判所ウガンダ第二次コンゴ戦争における人権侵害への補償コンゴ民主共和国支払うよう判決下した北部と南部スーダンにおけるウガンダ軍とSPLALRAハルツーム政府の関係は依然として続いていたが、ハルツームとムセベニの関係改善により、相互代理攻撃停止されウガンダ軍がスーダン領内でも直接LRA攻撃できるようになった

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