外交と紛争
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政権獲得後もムセベニは NRA の総司令官の地位を維持した。ケニアのモイ政権は当初新政権がケニアの反政府勢力を支援している疑惑を持った。緊張が高まり1987年末には国境のブシアで軍事的な衝突のない睨み合いが起った。内陸国でインド洋へのアクセスをモンバサ港に依存しているウガンダにとってはいかなる国境封鎖も経済に打撃となった。 オボテ政権へのゲリラ闘争の間 NRA は国籍を問わず戦闘に参加する兵士を集めた。オボテ政権による亡命ルワンダ人への迫害は彼らの NRA 加入の弾みになった。ムセベニ政権の始めの数年間には数千人のルワンダ人がその地位を維持していた。1990年9月30日の夜NRAの4千人のルワンダ人兵士が密かに兵舎を離れ、他の部隊と共にルワンダ領へ侵入した。ルワンダ愛国戦線 (RPF) はNRAの内部で細胞を用いて多数の成員を行動させていたことが後に判明している。 RPFはジュベナール・ハビャリマナ政権に反対するルワンダ人亡命者の組織で、ムセベニ及びNRMと結び付いていた。アンコーレ人のヒマであったムセベニは、ハム仮説により「ウガンダのツチ」として自らをツチと結びつけ、同胞が苦難の中で慰めを得られるように中心的な役割を果たした。RPFの指導者の中にはフレッド・ルウィゲマやポール・カガメがいたが、彼らはNRMの創設メンバーでもあった。侵攻当初、ムセベニとハビャリマナは共に米国での国連サミットに参加していた。このRPFの動員タイミングは、RPFを止めるには遅すぎる、となるまでムセベニが現地を離れていられるように図られたものだという説がある。ルワンダ軍はベルギー、フランス、ザイール軍の助力を得てようやく RPF を撃退した。 1990年9月の侵攻に関し、ムセベニはこれを共謀したかまたは軍の統制を失っているか、もしくはその両方であるとして非難された。RPF はルワンダとウガンダの国境に跨るヴィルンガ山地に溶け込んだ。ハビャリマナ政権はウガンダが RPF に領土を後方基地として使わせていると非難し、ウガンダの国境付近の村を砲撃した。ウガンダも反撃したと広く信じられているが、これは多分RPFの拠点を守ることになったと思われる。この戦闘で6万人以上が家を逐われた。両国間で安全保障条約が結ばれ、両国はお互いの国境沿いの治安維持について協力することで合意したが、再起した RPF は1992年までにルワンダ北部の多くを占領した。 ムセベニは1991年及び1992年にアフリカ統一機構 (OAU) の議長に選出された。 1994年4月ハビャリマナとブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の乗った飛行機がキガリ国際空港上空で撃墜され、80万人以上が殺害されたルワンダ虐殺の引き金となった。RPFはキガリを制圧しウガンダ軍の協力を得て政権を握った。 1995年4月ウガンダは神の抵抗軍 (LRA) への支援を理由にスーダンとの外交関係を絶った。スーダンは逆にスーダン人民解放軍への支援を非難した。これら二つのグループは共に穴だらけの国境を行き来して行動している疑いがあった。ウガンダとスーダンの不和は1988年には始まっていた。アミン政権及び第二次オボテ政権時代にはウガンダ難民は南部スーダンで保護を求めた。1986年に NRA が政権を握るとこれら難民は西ナイル岸戦線や後の LRA に加わるようになった。長期間にわたりムセベニ政権はスーダンをウガンダの安全にとって最大の脅威と看做した。
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外交と紛争
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ルワンダ虐殺後、ルワンダ新政権は当時ザイールであったコンゴ民主共和国に逃れた元国軍兵士に脅かされていると感じた。彼らはモブツの支援を受けていた。これに対しルワンダ政府とムセベニはローラン・カビラの反政府勢力がモブツを倒し権力を握るように支援した。 1998年ルワンダとウガンダは今度は元は味方であったカビラを倒すために再びコンゴに侵攻した。この決定はムセベニと軍高官のみにより行われ、文官及び1995年憲法で定められた議会の承認を得たものではなかった。ムセベニは侵攻に従事させる将校を説得した。「我々はルワンダ人の始めた戦争を完結させねばならぬ。そして我らの大統領は時間を割いて我々がコンゴに取分があると納得させた」とある上級将校は語った。ウガンダの介入の表向きの理由はルワンダ軍と協力してDRCでのバニャムレンゲに対する「大量虐殺」を止めることであった。カビラは国境を閉鎖することができず、また民主勢力同盟 (ADF) がコンゴを後方基地としてウガンダで活動するのを許した。実際にはUPDFはコンゴ=ウガンダ国境には配備されず、戦線は国境から1,000Km以上(600マイル以上)西で反政府勢力のコンゴ解放運動を支援していた。このためウガンダ軍は ADF が主要都市のフォート・ポータルに侵入し、西ウガンダの刑務所を接収するのを防ぐことができなかった。 ルワンダとウガンダの部隊はコンゴの豊かな鉱物資源と木材を略奪した。ウガンダをアフリカ危機対応構想の中心に据えるべく軍事援助を行っていた 米国のクリントン政権はウガンダへのすべての軍事援助を停止した。カガメとムセベニの関係悪化と緊張に伴い2000年にはルワンダ軍とウガンダ軍がコンゴのキサンガニで3度砲火を交えた。ムセベニはイトゥリ紛争にも介入し非難を浴びた。2005年12月19日国際司法裁判所はウガンダに第二次コンゴ戦争における人権侵害への補償をコンゴ民主共和国に支払うよう判決を下した。 北部と南部スーダンにおけるウガンダ軍とSPLA、LRAとハルツーム政府の関係は依然として続いていたが、ハルツームとムセベニの関係改善により、相互の代理攻撃は停止され、ウガンダ軍がスーダン領内でも直接LRAを攻撃できるようになった。
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