劣悪な食生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/11 00:06 UTC 版)
「近世イギリス海軍の食生活」の記事における「劣悪な食生活」の解説
この時代の軍艦の食生活は、かなり劣悪なものであった。食品保存技術も発達しておらず、また、気候が違う南方への航海などでは、食料も水も腐敗した。ビールは気が抜けて、酸っぱくなってしまい、チーズは固くなった。チーズが軟らかい時は蛆がわいていた。また、パンは堅パンでかなり固かったが、この堅パンにも蛆がわくことが多かった。これは商船の航海でも同じであった。 他に塩漬けの肉なども積み込まれていたが、新鮮な肉を手に入れるため、船の中のマンガー(manger、船首部の水よけ仕切り)内部で牛や豚を、積み込まれたボートの中などで家禽(ニワトリ、ガチョウ)を飼育していた、ただし卵を食べられるのは士官に限られていた。パンやチーズ、飲料水は船底に積まれた。食品を出してくるのは司厨長の仕事だった。 イギリスの海軍の場合、17世紀から19世紀までは、軍艦1人当たりで、1日当たり1ポンド(454グラム)の堅パン、1ガロン(4.54リットル)のビール、1日おきに塩漬け豚肉か牛肉、1週間につき2パイントのエンドウ豆のスープ(1.14リットル)、3パイント(1.71リットル)のオートミール、8オンス(226.8グラム)のバター、1ポンドのチーズが支給された。 南方航路では、ビールの代わりに、保存が利くワインかブランデー、またはラム酒が積み込まれた。オートミールやバターの代用として、米やオリーブ・オイルの時もあった。入港中は生肉が支給されたが、新鮮な野菜が支給されるようになったのは、18世紀も終わりになってからだった。また、量としてはほぼ十分なものであった。ただし質の面では、防腐剤は塩に限られていたため、腐敗を止めるのには限度があった。現代の感覚からすれば、食欲が起こらないような薄い粥やシチュー、オートミールまたは豆のスープなどで、砂糖や酢で味付けされたものもあった。 1586年、サー・フランシス・ドレークのカディス湾遠征では、食事が原因で遠征が中止された。兵士からこのような抗議の声が出ていた。 マーチャウント艦長に要求する。艦長の名に恥じないよう、われわれを人間として扱い、食料不足でひもじい思いをさせるな。その支給があまりに少ないので、もはや生き延びていくことができない。夕食は4人に2分の1ポンドの牛肉一切れが支給されているだけだ。1週間のうち、4日は半身の干し魚があるだけで、そのほかに何もない。そのうえ、ポンプ水よりも悪い水を飲まされている。われわれは女王陛下徴発隊に連れてこられ、陛下のために働いているが、ここではそのように扱われていない。お前は、われわれの長ではなく、人でなしだ 食事の質の悪さもさることながら、食料補給に関する不正もあった。1665年 - 1667年の第2次英蘭戦争では、兵士は、支給証明書の片券を、毎週、または5日ごとに食料供給業者の元に持って行って、手に入るものを食べていたが、実は、検査官と業者は、本艦の事務長と示し合わせて、支給分をごまかしていた。また食事そのものが、発育不良の小麦の黒パンと、水のようなビールを少しという有様で、余りのひどさに、乗員の間ではこう言われた。 2ペック(9.09リットル)の大麦を刈り取って来て、それをロンドン橋からテムズ河口のグレープズエンドまで船外につるし、洗ったり泳がしたりしてみよう。その後で、それを引き上げてみれば、いままで飲んだこともないようなうまーいビールが飲める
※この「劣悪な食生活」の解説は、「近世イギリス海軍の食生活」の解説の一部です。
「劣悪な食生活」を含む「近世イギリス海軍の食生活」の記事については、「近世イギリス海軍の食生活」の概要を参照ください。
- 劣悪な食生活のページへのリンク