功臣のその後
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日本書紀には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山[要曖昧さ回避]位以上をあたえたとする記事があるので、恵尺もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。 天武天皇4年(675年)6月23日に、大分恵尺は病んで死が近くなった。天皇はこれを知って驚き、恵尺の功を語って子孫を厚く賞することを約束する詔を発し、恵尺を外小紫にした。小紫は高位だが、恵尺が得たのは外位である。出自の身分が低い恵尺を有力貴族と同列にすることはできないが、功臣を高く賞したいという考えから、外位になったと考えられる。恵尺は数日後に自宅で死去した。 九州唯一の畿内型終末期古墳である古宮古墳に埋葬されたと推定されている。
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功臣のその後
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戦後の置始菟の処遇や活動については『日本書紀』に記載がない。天武天皇元年(672年)12月4日に壬申の乱での勲功者の冠位が進められ、小山[要曖昧さ回避]以上の位が与えられた。置始菟もこれ以上の冠位を授かったと思われる。 死後、置始連宇佐伎が小錦上の位を授かったことが、『続日本紀』霊亀2年(716年)4月の記事から知られる。この冠位が廃止された天武天皇14年(685年)1月21日以前に死んだと推測できる。
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功臣のその後
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『日本書紀』には、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山[要曖昧さ回避]位以上をあたえたとする記事があるので、稚臣もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。 後述の死亡記事から、大分君稚臣が兵衛として勤務していたことがわかる。後の律令制で兵衛は兵衛府の兵士で、地方豪族の子弟としては低くも高くもない。当時の兵制は若干異なる可能性があるが、王宮の護衛の士である。 天武天皇8年(679年)3月6日に、兵衛大分君稚見は死んだ。壬申の年の戦いで先鋒として瀬田の敵陣を破った功により、外小錦上の位を贈られた。小錦上は高位だが、稚臣が与えられたのは外位である。稚臣の功を高く揚げたいとする意図と、中央の有力貴族と同列にはできないという事情から、外位になったと考えられる。
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功臣のその後
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日本書紀には12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山[要曖昧さ回避]位以上をあたえたとする記事があるので、品治もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。 天武天皇12年(683年)12月13日に、多品治は伊勢王、羽田八国(羽田矢国)、中臣大島と共に判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。この事業は年内には終わらなかった。品治の位はこのとき小錦下であった。 天武天皇13年(684年)11月1日に、多臣など52氏は新たに朝臣の姓を授かった。 天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。多品治はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人の中の一人であった。 持統天皇10年(696年)8月25日に、品治は直広壱と物を与えられた。壬申の乱の際に始めから従ったことと、堅く関を守ったことが褒められたのである。他の例からすると、この贈位記事が品治の死去を意味している可能性がある。 なお、品治を太安万侶の父とする説がある(『阿蘇家略系譜』)。
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功臣のその後
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『日本書紀』には、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上を与えたとする記事があるので、県犬養大伴もこれと同じかそれ以上の位を得たと思われる。また、壬申の功により県犬養連大侶が100戸を封じられたことが、『続日本紀』大宝元年(701年)7月21日条から知られる。 天武天皇9年(680年)7月5日に、天皇は犬養連大伴の家に出向いて病を見舞った。天武天皇13年(684年)12月2日に、県犬養氏ら50の連姓の諸氏は宿禰の姓になった。天武天皇14年(685年)9月18日に、天武天皇は皇族・臣下と大安殿で博打をして遊んだ。このとき天皇は大安殿の中に、皇族と臣下は殿の前に位置した。県犬養宿禰大侶はこの日に天皇の衣と袴を与えられた10人の中の一人であった。 朱鳥元年(686年)8月9日に天武天皇は亡くなり、27日に皇族、臣下が天皇に対して誄を述べた。このとき、直大参の県犬養宿禰大伴が誄して宮内のこと全般を語った。これにより彼が宮内のことに携わっていたと知れる。 大宝元年(701年)正月29日に県犬養宿禰大侶は死去。このときの位は直広壱であった。文武天皇は、夜気王らを遣わして詔を述べさせ、壬申の乱での功によって正広参の位を贈った。
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功臣のその後
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戦後、天武天皇元年(672年)12月4日に、壬申の乱での勲功者の冠位が進められ、小山[要曖昧さ回避]の位以上が与えられた。矢国もそれ以上の位を授けられたと考えられる。 天武天皇12年(683年)12月13日に、伊勢王、羽田矢国、多品治、中臣大島は、判官・録史・工匠といった部下を引き連れて全国を巡り、諸国の境界を定めた。この事業は年内には終わらなかった。矢国の位はこのとき大錦下であった。 天武天皇13年(684年)に羽田氏は真人の姓を与えられた。 天武天皇15年/朱鳥元年(686年)の3月6日、大弁官・直大参、羽田真人矢国が病気になったため、僧3人を得度させた。矢国は25日に死んだ。直大壱の位が贈られた。
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功臣のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/29 14:28 UTC 版)
『日本書紀』は戦後行賞の記事で個人名をあげないが、12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山[要曖昧さ回避]位以上をあたえたとする記事があるので、男依が受けた位もこれ以上ではあっただろう。『続日本紀』大宝元年 (701年) 7月21日条は、先朝が壬申の論功をおこなったときに村国小依が120戸の封を賞として与えられたことを伝える。小依(男依)の120戸は最多である。だが、地方豪族出身である男依らが、功によって中央の要職を占めることはなかった。 村国連雄依は天武天皇5年(676年)7月に死去した。壬申の際の功により、外小紫が贈られた。小紫は高位だが、外位である。地方出身で出自が低い者を中央の貴族と同列にするわけにはいかないが、彼等の功績は高く顕彰したいという考慮から、「外」という位が作られたと推測されている。 霊亀2年(716年)3月8日に、村国連小依の功績によって息子の志我麻呂が田を与えられた。
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