出生から承久の乱まで
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寿永2年(1183年)、北条義時の長男(庶長子)として生まれる。幼名は金剛。母は側室の阿波局で、御所の女房と記されるのみで出自は不明。父の義時は21歳、祖父の時政ら北条一族と共に源頼朝の挙兵に従い鎌倉入りして3年目の頃である。 泰時が10歳の頃、御家人多賀重行が泰時と擦れ違った際、重行が下馬の礼を取らなかったことを頼朝に咎められた。頼朝の外戚であり、幕政中枢で高い地位を持っていた北条は、他の御家人とは序列で雲泥の差があると頼朝は主張し、重行の行動は極めて礼を失したものであると糾弾した。頼朝の譴責に対して重行は、自分は非礼とみなされるような行動はしていない、泰時も非礼だとは思っていないと弁明し、泰時に問い質すよう頼朝に促した。そこで泰時に事の経緯を問うと、重行は全く非礼を働いていないし、自分も非礼だと思ってはいないと語った。しかし頼朝は、重行は言い逃れのために嘘をつき、泰時は重行が罰せられないよう庇っていると判断し、重行の所領を没収し、泰時には褒美として剣を与えた。『吾妻鏡』に収録されるこの逸話は、泰時の高邁な人柄と、頼朝の泰時に対する寵愛を端的に表した話と評されている。ただし江戸時代後期の国学者大塚嘉樹は『東鑑別注』において、『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰のための曲筆としている。 『吾妻鏡』によれば、建久5年(1194年)2月2日に13歳で元服、幕府にて元服の儀が執り行われ、烏帽子親となった初代将軍・源頼朝から偏諱(「頼」の1字)を賜って頼時(よりとき)と名乗る。後に泰時と改名した時期については不明とされているが、『吾妻鏡』を見ると、正治2年(1200年)2月26日条の段階で「江間大郎頼時」となっていたものが、建仁元年(1201年)9月22日条の段階では「江馬太郎殿泰時」(「間」と「馬」、「大」と「太」は単なる表記違いであろう)と変わっていることから、この間に改名を行ったものと考えられる。この時期は烏帽子親である頼朝が亡くなった正治元年(1199年)の直後であり、頼朝の死も関係しているものとみられる。 また元服の際には、同時に頼朝の命によって三浦義澄の孫娘との婚約が決められており、改名後の建仁2年(1202年)8月23日には三浦義村(義澄の子)の娘(矢部禅尼)を正室に迎えた。その翌年に嫡男時氏が生まれるが、後に三浦氏の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。同じく建仁3年(1203年)9月には、比企能員の変で比企討伐軍に加わっている。 建暦元年(1211年)に修理亮に補任する。建暦2年(1212年)5月、異母弟で義時の前室の子であり北条家の嫡子であったと考えられる次郎朝時が第3代将軍・源実朝の怒りを買って父義時に義絶され、失脚している。建暦3年(1213年)の和田合戦では父・義時と共に和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。 建保6年(1218年)には父から侍所の別当に任じられる。承久元年(1219年)には従五位上・駿河守に叙位・任官される。 承久3年(1221年)の承久の乱では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方には共に大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。以降京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
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