事件後の出来事
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事件前後の伊藤博文 伊藤博文は 「大久保から手紙が来た『今から私は直ぐ参朝するから貴君も直ぐ来て下さい』と云ふ文意である。何でも朝殺される僅か数分前に書かれたものだ。(中略)赤坂の方から参内する。向ふは紀尾井坂より行つた。赤坂の内閣に出ると「凶変を知つて居るか。今大久保公が殺された』と云ふとぢや。実に意外なことで誠に残念千万の次第であつた。即ち此の時、公が我輩に贈られた手紙は大久保公の絶筆である」と語っている。 大久保の葬儀 事件の翌日の5月15日に大久保に正二位右大臣が追贈され、大久保および御者の中村の慰霊式が行われ、17日に両者の葬儀が行われた。大久保の葬儀は大久保邸に会する者1,200名近く、費用は4,500円余りという近代日本史上最初の国葬級葬儀となった。 会津人の反応 会津藩出身の軍人である柴五郎は、当時まだ18歳であったが大久保の非業の死を聞いて、西郷の非業の死とあわせて「両雄非業の最期を遂げたるを当然の帰結でなりと断じて喜べり」と書いている。 石川県人の反応 石川県人の中には、事件を聞いて快哉の手紙を故郷に送った人がいたという。 内村鑑三の反応 内村鑑三は『内村鑑三日記』にその感想を記した。 高官の護衛強化 この事件を機に、政府高官の移動の際は、数人の近衛兵らによる護衛が付くようになった。 事件の捜査 警察の捜査は厳重を極め、斬奸状を起草した陸や、島田に頼まれ斬奸状を各新聞社に投稿した者(しかし各紙に黙殺されて掲載されなかった。「朝野新聞」は5月15日に要旨を短く紹介したが即日、7日間の発行停止を命じられた)、事件を聞いて快哉を叫んだ手紙を国許に送っただけの石川県人など30名が逮捕された。 処罰 政府は暗殺犯を刑法上規定がない「国事犯」として処理し、大審院に「臨時裁判所」を開設して裁判を行った。臨時裁判所は形式上は大審院の中に存在するが、実際は、太政官の決裁により開設し、太政官から司法省に委任された権限に基づいて判決を下す事実上の行政裁判所であった。司法卿によって任命された玉乃世履判事らは同年7月5日に判決案を作成し司法省に伺いを立て、司法省では、これを受けて7月17日に太政官に伺書を提出した。太政官は7月25日に決裁し、7月27日に6名は判決を言い渡され、即日、斬罪となった。斬奸状を起草した陸は終身禁錮刑に処せられたが、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法発布により特赦を受けて釈放された。 大久保の遺した借金の補填 斬奸状には大久保が公金を私財の肥やしにしたと指摘の言葉があったが、実際は金銭に対しては潔白な政治家で、必要な公共事業を私財で行うなどしていた。そのため、死後は8,000円もの借金が残ったという。政府は、このまま維新の三傑である大久保の遺族が路頭に迷うのは忍びないという配慮から、協議の上、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めて、この1万6,000円で遺族を養うことにした。 明治政府の石川県に対する分割処置 実行犯の島田らの出身地である石川県は事件発生当時、旧越中国全域および旧越前国の大半も含めた大県であったが、当事件をきっかけに、明治政府は石川県は大県かつ不平士族が多い故の難治県と警戒するようになり、石川の力を削減するために、(事件からおよそ3年後の)1881年に旧越前国を福井県に、1883年に旧越中国を富山県にそれぞれ分県させることに繋がった。 贈右大臣大久保公哀悼碑 事件から10年後の1888年(明治21年)5月、西村捨三・金井之恭・奈良原繁らによって「贈右大臣大久保公哀悼碑」が建てられた。 暗殺一味の松田秀彦のその後 暗殺計画に関与した松田秀彦(鳥取県出身の島根県士族)は事件後に連座して服役し、出獄後は大日本武徳会の武道家として有名になった。 遺品となった懐中の手紙と暗殺時の馬車の行方 大久保は家族にも秘密で、生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にも西郷からの手紙を2通懐に入れていた。なお、事件後は大山巌が血染めになったそれを所持したとされている。大久保が暗殺時に乗っていた馬車は、後に供養のため遺族が岡山県倉敷市の五流尊瀧院に奉納し現存している。
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