ヴィジャヤナガル王国の最盛期
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「ヴィジャヤナガル王国」の記事における「ヴィジャヤナガル王国の最盛期」の解説
1503年、トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカは死亡し、息子ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤがその地位を継承した。1505年サールヴァ朝のインマディ・ナラシンハ・ラーヤから王位を奪って即位し、トゥルヴァ朝を創始した。 だが、ヴィーラ・ナラシンハ・ラーヤの治世は短く、1509年に弟のクリシュナ・デーヴァ・ラーヤが継ぐごとになる。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の最も偉大な君主とされ、ガジャパティ朝やビジャープル王国に遠征を繰り返し、広大な版図を獲得する一方で、文芸を保護し、旅行者から国民の幸せを願う君主という最大級の賛辞を送られる名君であった。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは治世の初め、父トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの代より徐々に回復傾向にあったヴィジャヤナガル王国の領土回復に努めた。東方では、オリッサのガジャパティ朝に攻め込み、ゴーダーヴァリ川河口を越えて、1512年にはウダヤギリを落とし、北東のシンハーチャラムまで平定した。北方は、バフマニー朝が分裂してできたムスリム5王国の1つ、ビジャープル王国と対決して、1520年にはバフマニー朝時代からの係争地ライチュール地方を獲得した。 このように、即位してから1520年までの10年間に目覚しい戦果を上げ、王国の版図は拡大され、その領土は最大となった。 当時西海岸にはポルトガル人が進出してきていたが、これに対してマラバール海岸への進出を黙認するかわりに、ビジャープル王国からライチュール地方を取り戻すための協力と、アラビアからの馬の補給を確保していた。クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはポルトガルと積極的に交易を行い、西アジアからの軍馬の輸入を確保し、軍の維持に努め、ポルトガルの馬商人パイスによると、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世ヴィジャヤナガル王国は13000頭にもおよぶ軍馬を輸入し、その大部分はホルムズ島を経由していた。 対外貿易の成功の要因は、ヴィジャヤナガル王国内にはカリカット(コーリコード)やマンガロールなど優れた外港が300以上も存在したからであり、これらの外港にはポルトガル人や西アジアのイラン人のみならず、アラビア半島、中国(明朝)、東南アジア諸国、アフリカからも交易目的の人々が来航し、ヴィジャヤナガル王国の外港はインドにおける貿易の中心地として非常ににぎわった。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは、ヴィジャヤナガル王国の発展にも努め、国内では各地に都市に貯水池、川にはダムや堤防をつくり、商工業を奨励し、国内を安定させた。 さらに、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤは税収の安定をはかるために、15世紀末にサールヴァ朝より成立しつつあった、ヴィジャヤナガル王国の領主層であるナーヤカに徴税させる、「ナーヤカ制」を確立しようとした。これはナーヤカに自分の領地を知行地して改めて与え、徴税や世襲などの特権を認めるかわり、忠誠や納税などの義務を負わせるもので、任地替えもよく行われた。 また、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはヴィシュヌ派ヒンドゥー教の信仰をもち、その聖地ティルパティのヴェンカテーシュヴァラ寺院をはじめとするヒンドゥー寺院を手厚く保護したが、彼は宗教に関してはとても寛容であり、国民にすべての宗教の信仰を許した。彼も「ヒンドゥーの王にしてスルターン」を名乗った一人だった。 クリシュナ・デーヴァ・ラーヤの治世にヴィジャヤナガル王国の版図は最大となり、国内は首都ヴィジャヤナガルをはじめ賑わい、王国には平和が広く行き届き大いに繁栄し、最盛期を迎えた。しかし、その晩年には宮廷の内紛とそれにつけこんでビジャープル王国軍の侵入があり、ライチュール地方が再び奪われ、クリシュナ・デーヴァ・ラーヤはそうした状況の中で没した。
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