ヴィジャヤナガル王国の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/05/03 14:45 UTC 版)
「ヴィジャヤナガル王国」の記事における「ヴィジャヤナガル王国の滅亡」の解説
そして、1614年に老王ヴェンカタ2世が死亡すると、シュリーランガ2世が後を継いだ。だが、ヴェンカタ2世の息子ジャッガ・ラーヤも王位を宣し、この内乱に各地のナーヤカも介入するなど、以降国内は激しい内乱となった。 結局、同年にシュリーランガ2世とその家族は殺され、ジャッガ・ラーヤが王となったものの、1617年にシュリーランガ2世の息子ラーマ・デーヴァ・ラーヤにトップールの戦いで殺された。 これらの争いに乗じて、それまで半独立だったシェンジ、マドゥライなどのナーヤカ朝は完全に独立した。また、ビジャープル王国とゴールコンダ王国の進出もあって、王国の北部はビジャープル王国に占領されるなど、ヴィジャヤナガル王国は急速に衰退した。 1630年にラーマ・デーヴァ・ラーヤが死ぬと、ラーマ・ラーヤの孫ヴェンカタ3世が後を継いだが、シュリーランガ2世の弟ティンマ・ラーヤが継承権を主張して内乱となり、1635年にティンマ・ラーヤが死ぬまで続いた。ヴェンカタ3世の時代、ヴィジャヤナガル王国にかつての広大な領土はなく、もはや周りをビジャープル王国とゴールコンダ王国、有力ナーヤカ朝に囲まれた小国の一つとなっていた。 1642年4月、ヴィジャヤナガル王国の主力軍とヴェールゴーティ・ティンマ・ナーヤカとダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカの援軍が、ゴールコンダ王国の軍44,000に敗れ、同年10月にヴェンカタ3世はそうした情勢の中で死亡した。 後を継いだその甥シュリーランガ3世の時代、周辺のナーヤカ朝の勢力が強まり、ヴィジャヤナガル王国はゴールコンダ王国の力をかりてそれらに対抗する有様だった。 だが、これはゴールコンダ王国とビジャープル王国のさらなる進出を招き、1647年に首都ヴェールールはビジャープル王国の軍勢に包囲され、陥落した。 シュリーランガ3世は都ヴェールールを逃げ、タンジャーヴール・ナーヤカ朝の保護を受けが、1649年にビジャープル王国の軍はタンジャーヴールも包囲し、これを陥落させた。その後、シュリーランガ3世は逃げつつ抵抗したが、タンジャーヴールが陥落した時点で事実上滅亡した。 ここに、3世紀以上にわたり南インドを支配してきたヴィジャヤナガル王国は事実上の終焉を迎えた。
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