ヴィジャヤ(闍槃)のチャンパ王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:51 UTC 版)
「チャンパ王国」の記事における「ヴィジャヤ(闍槃)のチャンパ王」の解説
1400年にヴィジャヤ王朝のチャンパ王羅皚が死去すると、巴的吏が即位した。巴的吏治下のヴィジャヤ王朝は1402年に胡朝二世皇帝(胡漢蒼)の侵攻を受け、都の闍槃 Chà-bàn/Đồ-bàn(クイニョン Quy Nhơn[帰仁], 『占皇家編年史』の Jek, 『スジャラ・ムラユ』の Yak)を失い、巴的吏が明に救援を求めた。胡朝が明に朝貢していた陳朝を簒奪してこれを滅ぼし、同じく明に朝貢していたチャンパ(占城)を占領したことは、明の永楽帝に干渉戦争(中国・明のベトナム侵攻(英語版))の大義名分(ベトナム北部の大越陳朝と中部のチャンパの再興)を与えた。明は1407年までに北ベトナムおよび南ベトナム(大虞胡朝およびその占領下にあったチャンパ)をほぼ征服しおえ、南ベトナム・ヴィジャヤのチャンパのみ再興して陳朝は再興せず、北ベトナムを直接統治した(1407年-1427年、第四次北属時期(英語版))。チャンパの解放・再興後、1408年にチャンパを訪問した鄭和艦隊は、ヴィジャヤの外港シュリーヴィナーヤカ(クイニョン)においてチャンパ王巴的吏から歓待を受けた。鄭和はマジャパヒト王国のスラバヤへも寄港している。
※この「ヴィジャヤ(闍槃)のチャンパ王」の解説は、「チャンパ王国」の解説の一部です。
「ヴィジャヤ(闍槃)のチャンパ王」を含む「チャンパ王国」の記事については、「チャンパ王国」の概要を参照ください。
- ヴィジャヤのチャンパ王のページへのリンク