ヴィジャナガル王国の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/09/21 06:53 UTC 版)
「ヴェンカタ2世」の記事における「ヴィジャナガル王国の滅亡」の解説
ヴェンカタ2世の死はヴィジャヤナガル王国の真の終焉をあらわしており、以降王国は急速に崩壊していった。 ヴェンカタ2世の死後、王位は彼の指名を受けていた甥のシュリーランガ2世が継承した。だが、ヴェンカタ2世の息子ジャッガ・ラーヤも王位を宣し、この内乱にシェンジ、マドゥライ、タンジャーヴールといった各地のナーヤカも加担するなど、国内は混乱に陥った。 結局、同年にシュリーランガ2世とその家族は殺され、ジャッガ・ラーヤが王となったが、1617年にシュリーランガ2世の息子ラーマ・デーヴァ・ラーヤにトップールの戦いで殺された。だが、新たな王ラーマ・デーヴァ・ラーヤは暴政の限りを尽くす滅茶苦茶な男で、この王の統治で王国の寿命はさらに短くなった。 その後、1642年4月、ヴェンカタ3世の治世、ヴィジャヤナガル王国の主力軍とヴェールゴーティ・ティンマ・ナーヤカとダーマルラ・ヴェンカタ・ナーヤカの援軍が、ゴールコンダ王国の軍44,000に敗れた。 そして、1649年にシュリーランガ3世の治世、ヴィジャヤナガル王国はビジャープル王国に滅ぼされた。
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