モレルの陸地の探索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:40 UTC 版)
「ニューサウスグリーンランド」の記事における「モレルの陸地の探索」の解説
1838年、フランスの探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルがモレルの報告した「北の岬」の位置を航行したが、陸地の兆候が無かったので、ニューサウスグリーンランドの存在に疑問が投げかけられた。この証言と、モレルの計算が明らかに誤りが多いという総体的な性格、さらにイギリスの地理学者ヒュー・ロバート・ミルの言では「自伝的ロマンスの英雄ほども大きな」大言壮語の人という評判もあって、その後の地理学者達はモレルの主張を無視するようになった。1843年、ジェイムズ・クラーク・ロスが、モレルの観測したという場所からさして離れていない位置に陸地を見たと報告した後ですら疑念が残ったままだった。ロスが見たという報告はモレルの主張を支持するものとして提示されることもあった。その後1903年までウェッデル海に入ったものは居なかったが、この年ウィリアム・スペアズ・ブルースがスコティアに乗船して南緯74度1分まで進んだものの、この海域でモレルやロスの見たという陸地に接近している可能性はなかった。しかし、ブルースは概してモレルに対して好意的な傾向があり、絶対的に否定されるまでモレルの主張を拒絶すべきではないと書いていた。 ニューサウスグリーンランドを対象にした最初の捜索は、1911年から1913年にヴィルヘルム・フィルヒナーが指揮した第二次ドイツ南極遠征の時だった。この遠征船「ドイチラント」はバシェル湾で陸上の基地を設けようとしている間に厚い氷に閉ざされることになった。そのまま北西方向に漂流することで1912年6月半ばには、モレルが陸地を視認したと記録した場所の東37マイル (60 km) まで来た。フィルヒナーは6月23日に2人の仲間と3週間分の食料と共に船を離れ、橇で氷の海を西に進み、モレルの陸地を探した。日照は1日2時間ないし3時間という季節であり、気温は-31 °F (−35 °C) まで落ち、移動が難しかった。このような条件下でこの隊は31マイル (50 km) を進み、度々観測を行った。しかし陸地らしいものは無かった。氷を通して落とした鉛の錘は5,248フィート (1,600 m) にまで達し、その後に糸が切れた。その深さは近くに陸地が無いことを示していた。フィルヒナーはモレルが見た物は蜃気楼だと結論付けた。 1915年8月17日、アーネスト・シャクルトン卿の遠征船「エンデュアランス」も、3年前の「ドイチラント」と同様に凍りに捉われ、モレルが海図に入れた場所の西10マイル (16 km) に漂流していった。ここで水深の測定が行われ、1,676ファソム (10,060 フィート、 3,065 m) と記録された。シャクルトンは「モレルの陸地は溶けて氷山になった南極の諸島および大陸海岸の多くに付け加えなければならないと判断した。」と記した。8月25日、さらに水深測定を行い、1,900ファソム (11,400 フィート、 3,500 m) となり、シャクルトンはニューサウスグリーンランドが存在しないという証拠を追加した。 フィルヒナーとシャクルトンの調査と観測は、ニューサウスグリーンランドが神話に過ぎないという決定的な証拠として受け入れられ、残る問題はジェイムズ・クラーク・ロスが記録した南緯65度西経47度付近の陸地出現についてだった。ロスの評判はその報告を真面目に取るだけのものがあり、彼が見たとされるものは地図や海軍本部の海図に載っていた。1922年、シャクルトン=ローウェット遠征の初期にシャクルトンが死んだ後に遠征船クエストの指揮を執ったフランク・ワイルドが、ロスが陸地を視認したとする場所を捜索した。しかし何も発見されなかった。正確な地点には氷の状態で到着できなかったが、ワイルドは南緯64度11分西経46度4分で水深特定を行い、その結果は2,331ファソム (13,986 フィート、 4,263 m) だった。これはその近くに陸地が無いことを示していた。
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