フランスの探検家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/07 17:57 UTC 版)
「パスクリスチャン (ミシシッピ州)」の記事における「フランスの探検家」の解説
パスクリスチャンは、フランス系カナダ人の探検者によって、1699年に発見された。これはビロクシにフランス植民地が設立された直後のことだった。1699年6月、フランスはパスクリスチャン半島で水路を探っていた間に、そこで多くの牡蠣を発見したことで、その水路をパス・オ・ユイトル(牡蠣の水路)と名付けた。パスクリスチャンはその近くの水深が深い水路に名付けた。こちらは1746年から近くのキャット島に住み始めていたニコラス・クリスチャン・ラドニエにちなんだ命名だった。 彼らは翌日悪天候のためにアイル・オ・ベッソー(船の島)に留まった。6月13日、アイバービルとその兄弟のビヤンビルが13人の隊員を伴って岸に上がるために、島の西端から真北に船を向けた。その上陸は現在のボーボアールからエッジウォーターの間のどこかであると考えられる。 翌朝、彼らは海浜沿いに東側を探検し、砂の上の足跡を辿って、ディア島をカヌーで去ろうとしていた3人のインディアンを視界に収めた。アイバービルがビロクシ湾を渡って彼らの跡を追い、オーシャンスプリングスで岸に達するところで追いついた。3人のインディアンの中で若い者2人は森の中に逃亡し、年寄りで死にかけている者が残された。フランス人は彼のために藁のベッドを作って、火を焚き、その後に自分達の宿営所を作った。不運にもインディアンの周りの草に火が付き、その火はやがて消えたが、その老人は半時間後に死んだ。 アイバービルの隊員が森の中で老女を掴まえ、彼女に贈り物を与えて、その部族の所に連れて行かせた。インディアンとの初の外交的接触がなされ、インディアンは彼らに西方にある大きな川のことを伝えた。 2月27日、アイバービルはビヤンビル、M・ソーボル、さらに48人の隊員と共にミシシッピ川を訪れるために「風と小雨の中を」出発した。彼らは後にセントルイス湾と名付けた海域の南端近くで夜を過ごし、翌日は霧と雨の中をブレトン・サウンドを横切り、それが翌日も続いた。3月2日、彼らは嵐が来る前に帆走し、ミシシッピ川河口を突き止めてその中に入り、上流に遡って様々なインディアン部族と接触し、3月16日になって、装飾された柱に出くわした。それはホウマ族とバヤグラス族の境界を示すものだった。彼らはその場所を「赤い棒」すなわちフランス語で「バトンルージュ」と呼んだ。アイバービルは帰りの旅で、その14年前にアンリ・デ・トンティがロベール=カブリエ・ド・ラ・サールに宛てて書いた手紙という形態で求めていた証拠を見つけた。この手紙はモングラチャ族の酋長の元に残されており、アイバービルが幾つかの斧とナイフと交換に手に入れた。 アイバービルはそれから間もなく隊を2つに分けた。ビヤンビルはミシシッピ川河口に戻り、アイバービルはパスマンシャク、モールパ湖、ポンチャートレイン湖の地域を探検し、リゴレッツを通って海に戻った。 アイバービルが4月27日にその船を降りる時、1か月以内に戻らなければフランスに戻るように指示していた。3月30日、アイバービルはセントルイス湾入口近くで宿営し、大きな焚き火を焚いてその帰還を知らせていた。 翌朝、アイバービルはキャット島を認め、それから間もなく船に到着した。その約1時間後にビヤンビルとその隊も到着した。
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