ホセ・デ・リベーラ
(ホセ・デ・リベラ から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/25 03:27 UTC 版)
ホセ・デ・リベーラ(José de Ribera, 1591年1月12日 - 1652年9月2日)は、バロック期のスペイン黄金時代美術を代表する画家。「フセペ・デ・リベーラ」(Jusepe de Ribera)とも称する。
- ^ a b “José de Ribera”. Enclclopedia Britannica. 2016年11月5日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k プラド美術館 et al. 2002, p. 232
- ^ Britannica Japan Co.,Ltd.; Encyclopædia Britannica, Inc.『リベラ』(小項目電子辞書)、2007年。
- ^ Britannica Japan Co.,Ltd.; Encyclopædia Britannica, Inc.『リバルタ』(小項目電子辞書)、2007年。
- ^ トロペーア, 優 (2015年10月23日). “サン マルティーノ修道院”. 旅行比較サイト トラベルコちゃん. 2016年11月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月4日閲覧。
- ^ プラド美術館 et al. 2002, p. 103.
- ^ 池上英洋『西洋美術史入門』筑摩書房「ちくまプリマー新書」、2012年、91頁。ISBN 978-4-480-68876-7。
- 1 ホセ・デ・リベーラとは
- 2 ホセ・デ・リベーラの概要
- 3 代表作『えび足の少年』
ホセ・デ・リベラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 05:02 UTC 版)
「スペイン黄金時代美術」の記事における「ホセ・デ・リベラ」の解説
ホセ・デ・リベラは1591年バレンシア近郊で生まれたが、1615年まで確固とした足取りが掴めない画家である。ただ1610年程から北イタリアを周遊しパルマにいたことが分かっている。北イタリアの自然主義を会得し、それからローマへ移りカラヴァッジョらバロック絵画を生身で体感する。リベラの持つ重たい黒の表現や、人を美化せずその醜い部分までも鮮明に描写する作風はカラヴァッジョから学んだものと言える。また、当時ローマは様々な地域から絵の留学生が集っていたため、ネーデルラント系の画家たちとの交流の跡が見られる作品もある。そして1616年にローマで学んでいたサン・ルカ美術アカデミーに別れを告げて、当時スペインの飛び地的領土であったナポリへ向かった。 着くや否やオスナ公爵に抱えられ、彼のために絵筆を振るうことになる。劇的な明暗法や迫力ある筆致に磨きがかかり、一気にナポリ周辺の画家の盟主となっていった。経済的にも安定して歴代スペイン副王からの受注も答えた。エッチングにも長け版画によって広範な影響をあたえることになる。当時ナポリ屈指の絵画コレクターであるガスパール・ローメルのコレクション、特にルーベンスやその弟子であるヴァン・エイクらの作品から学んだ。しかし彼の前期のキャリアを観るとやはりカラヴァッジョの影響が圧倒的である。 1629年にはセビリアのアルカラ公爵の受注が入り、肖像画『デモクリトス』を含んだ作品群を描いた。この作品は完成された写実性と明暗法からリベラの代表作とされる。公爵との実り深い交流によって様々な傑作が海を越えてセビリアに入ってきた。そのためセビリアにいたスルバランやアロンソ・カーノなどに大きな影響を与えたのだった。 自らも1630年代半ばからローマにいたフランス系の画家たち、例えばクロード・ロランの風景画に影響を受け、これまでの陰影法とはまるで違う牧歌的で鮮やかな青を試したりしている。カラヴァッジョ風からリベラ独自の芸術を創り上げるべく、研鑽をつづけた。その成果と言えるのが『ヤコブの夢』である。人物のずば抜けた写実性はもちろんであるが背景の表現はカラヴァッジョから離れていることが分かる。このように独自の道を切り開いて、ますます名声を確かなものにするのだった。
※この「ホセ・デ・リベラ」の解説は、「スペイン黄金時代美術」の解説の一部です。
「ホセ・デ・リベラ」を含む「スペイン黄金時代美術」の記事については、「スペイン黄金時代美術」の概要を参照ください。
- ホセ・デ・リベラのページへのリンク