ペギー葉山
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ペギー葉山(ペギー はやま、本名:森 シゲ子(もり シゲこ)[注 1]、旧姓:小鷹狩 シゲ子(こたかり シゲこ)、1933年11月9日 - 2017年4月12日)は、日本の女性歌手、タレント。社団法人日本歌手協会7代目会長(後に名誉会長)。
注釈
出典
- ^ “名誉高知県人”. 高知県. 2022年7月25日閲覧。
- ^ ペギー葉山感激 高知で「南国土佐を後にして」歌碑除幕式スポニチ、2012年11月4日
- ^ “平成16年春の叙勲 旭日小綬章等受章者 東京都” (PDF). 内閣府. p. 3 (2004年4月29日). 2004年8月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月23日閲覧。
- ^ “歌手のペギー葉山さん、死去「ドレミの歌」の日本語作詞”. 産経ニュース. (2017年4月12日)
- ^ “歌手のペギー葉山さん死去 83歳「南国土佐を後にして」”. スポニチ. (2017年4月12日)
- ^ ペギー葉山さんの訃報にネットでは「ウルトラの母が逝ったか…」 - Sponichi Annex
- ^ ウルトラマンタロウが「ウルトラの母」を追悼 ペギー葉山さん死去で(1) - dot.
- ^ ウルトラマンタロウが「ウルトラの母」を追悼 ペギー葉山さん死去で(2) - dot.
- ^ a b “ペギー葉山さんの歌声 - 天風録”. 中国新聞 (2017年4月13日). 2017年4月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年4月16日閲覧。
- ^ 福島県 北海道に足跡を残したふくしまの人々2012年8月8日閲覧
- ^ 父粟谷菊生から聞いたおもしろ楽屋裏話 3
- ^ a b 市田忠義ホームページ【人・であい】
- ^ 公式ブログ (2009年8月6日). “広島への祈り”. 2017年4月12日閲覧。
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- ^ 西日本新聞 『ドレミの歌』は人生の宝物 ペギー葉山 プレス掲載情報 劇団四季 2012年9月18日朝刊掲載、2019年10月12日閲覧
- ^ a b 『唱歌・童謡ものがたり』51頁。
- ^ 世界・わが心の旅 - NHKクロニクル
- ^ 『唱歌・童謡ものがたり』53頁。
- ^ 読売新聞社文化部『この歌この歌手〈上〉運命のドラマ120』社会思想社、1997年、61頁。ISBN 4390116010
- ^ 原曲:Too-Ra-Loo-Ra-Loo-Rai (That's an Irish Lullaby)
- ^ 原曲:Le petit cordonnier(Françis Lemarque)
- ^ 原曲:Poly Polisson(イザベル・オーブレ)
- ^ 原曲:Saladedefruits(The Silver Folios)
- ^ 原曲:En passant par la Lorraine(フランス民謡)
- ^ 原曲:Gentil Coquelicot(フランス民謡)
ペギー葉山
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「森雅裕 (ミュージシャン)」の記事における「ペギー葉山」の解説
本名 森繁子(旧姓 小鷹狩=こたかり)。1933年12月9日、東京府豊多摩郡四谷区(現 東京都新宿区)に生まれる。実際は11月9日生まれだが、祖父が出生届を出し忘れてしまっていたために戸籍上は12月9日となる。 青山学院中学部(現 青山学院中等部)在学中に声楽を学び音大進学を志す。その後、米軍向けラジオから流れるアメリカのポピュラー音楽に興味を抱くが、同学院女子高等部(現 青山学院高等部)2年生の時にBing Crosbyの歌う「アイルランドの子守唄」に感銘を受け、クラシックからジャズへ転向する。その後、高校生にして進駐軍キャンプで歌うようになる。このころすでにペギー葉山と名乗っていた。ペギーの芸名は、敗戦後間もない時期に進駐軍クラブで歌う人たちには、呼びかけやすいようにアメリカ風の愛称が必要だったために、繁子も日系風の芸名を付けたことによる。ペギーは10代の若さをアピールすることなく、正確な英語で歌うと評判になりそれが見込まれて当時のビッグバンドの渡辺弘とスターダスターズの3代目専属歌手として契約する。 1952年、KING RECORDSから「ドミノ/火の接吻」でデビュー。専属の契約が解除になった55年2月に渡米し、各地で歌い盛況を博す。58年にはミュージカル「あなたの為に歌うジョニー」で芸術祭個人奨励賞を受賞。翌年には「南国土佐を後にして」が空前の大ヒットとなり不動の地位を築く。当初、この曲をNHK高知開局記念で歌うことを頼まれたが民謡調の曲に戸惑い一度は丁重に断った。しかし、ジャズのペギー調で構わないと懇願されたために引き受け、それが200万枚の大ヒットにつながりペギーの代表曲となった。 1960年8月、日米修好百年祭に日本人代表として招かれた時に鑑賞したミュージカル「サウンド オブ ミュージック」の「ドレミの歌」を帰国後に訳詞を付けて紹介し、音楽の教科書にも掲載され広く知られるようになる。 1965年、俳優の根上淳と結婚。68年には長男・森英児を出産する。87年4月には根上との共著『代々木上原めおと坂』を立風書房から出版。95年に紫綬褒章を、2004年には旭日小綬章をそれぞれ受章する。07年6月に社団法人日本歌手協会の初の女性会長に就任。14年6月には同協会3人目の名誉会長に就任する。 2017年4月9日にイベントのリハーサルで普段通りの元気な姿を見せていたが、翌日に体調を崩し入院。肺炎であった。容体が急速に悪化し、英児らに見守られながら12日に83歳で逝去。レコード大賞4度受賞をはじめ、8度におよぶ各受賞歴がある。レコーディングをした曲は2000曲を超える。
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