根上淳
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根上 淳(ねがみ じゅん、1923年9月20日 - 2005年10月24日)は、日本の俳優。本名は森 不二雄(もり ふじお)。
- ^ 『日本タレント名鑑'94』VIPタイムズ社、1994年、271頁。
- ^ a b c d 『キネマ旬報増刊no.772 日本映画俳優全集・男優編』株式会社キネマ旬報社、2、442-443頁。
- ^ 根上淳(インタビュアー:池田駿介)「独占インタビュー 根上淳」『DVD『帰ってきたウルトラマン』Vol.12 「MAT隊員手帳」』。
- ^ 以降の『エース』と『タロウ』の2作品でも隊長の制服は他の隊員と異なった仕様となっている。
- ^ 「税制改正と体質改善」『放送エンマ帳 テレビは曲り角にきている』オリオン出版社、1967年、191頁。
- ^ 1968年の東映作品『陸軍諜報33』に出演しているが、これは軍事スパイを扱ったもので、根上の役どころも軍人ではない。
- ^ “根上淳さん死去、妻・ペギー「あっぱれ」”. nikkansports.com. (2005年10月24日). オリジナルの2005年10月29日時点におけるアーカイブ。 2014年6月9日閲覧。
根上淳
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「森雅裕 (ミュージシャン)」の記事における「根上淳」の解説
本名 森不二雄。1923年9月20日、東京府豊多摩郡中野町(現 東京都中野区)に生まれる。3人兄弟の長男で、雅裕の父親となる良達とは年が離れており、良達が物心付いた時には不二雄はなんでもテキパキとこなしてしまうようなマメな男だった。また、不二雄はバラが大好きで、単に植えるだけでなく、種類の異なるバラの枝を接ぎ木するなどかなり凝っていた。 第二次世界大戦で日本の戦局悪化により、法政大学在学中の1943年10月21日に明治神宮外苑競技場において出陣学徒壮行会が開かれる。秋の強い雨が降りしきる中、5万人の学生たちに見守られながら、不二雄は2万5千人の出陣学徒の1人として出征。陸軍東部第62部隊(陸軍第101連隊)に入隊する。その後、陸軍航空隊の特別操縦見習士官として飛行訓練に入るが訓練中に胸を患い、入院中に終戦を迎える。 1947年、大映演技研究所の第3期生として入社。49年「母三人」で映画デビューし、俳優・根上淳としての人生を歩み始める。このころ、兄弟3人で一時期カントリーウエスタンバンドを組み、進駐軍の前で演奏していたこともあった。50年に公開された吉村廉監督の「二十歳前後」で初の主役を務め、翌年の木村恵吾監督の「牝犬」でのバンドマン役で注目を浴び、この作品が根上にとっての出世作となる。65年に根上の大ファンだったペギー葉山と結婚。67年に大映を退社。出演した映画は100本を超えていた。以降は、主にテレビドラマを中心とした活動に入る。68年、ペギーとの間に森英児が生まれる。 以降、98年に糖尿病の合併症による糖尿性脳梗塞で倒れるまでの間、「ザ ガードマン」や「ザ ハングマン」などの刑事ドラマ、「水戸黄門」や「銭形平次」などの時代劇ドラマ、特撮シリーズの「帰ってきたウルトラマン」ではMATの新隊長役を務めるなど幅広い役柄をこなす名脇役として、実に多くのドラマに出演する。98年からは自宅療養に入り、2000年に腎不全を患い人工透析を始めたため、ペギーは歌手活動を続けながら献身的に在宅介護を続けたが、05年10月24日に82歳で逝去。ペギーは最期の水として、新婚旅行の時に買ったブランデーを口に含ませた。 根上とペギーは2人で書道展に出展入選したり、CMでも共演するなど芸能界一のおしどり夫婦として知られる。1987年4月に立風書房から出版された『代々木上原めおと坂』も2人による共著である。
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