ベルリン大管区指導者とは? わかりやすく解説

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ベルリン大管区指導者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:12 UTC 版)

ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「ベルリン大管区指導者」の解説

その後、すっかりシュトラッサー兄弟カウフマン疎遠になったゲッベルスは、ヒトラーからミュンヘン招集される日を心待ちにしていた。しかし1926年10月末、ヒトラーゲッベルス下した辞令は「ベルリンブランデンブルク大管区指導者であった(なおグレゴールにはこの際に「宣伝全国指導者」の職が与えられた)。当時ベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者革命主義者多かったベルリンナチ党員はわずか1000人に過ぎず、しかも北部シュトラッサー兄弟本拠であったのでナチ党員にも革命主義者多かった。でありながらシュトラッサー兄弟大管区指導者エルンスト・シュランゲ(ドイツ語版)もベルリンナチ党をまとめきれず、ベルリン突撃隊指導者クルト・ダリューゲや既に離党したはずのハインツ・ハウエンシュタインドイツ語版)などが独自に指揮権行使しているような混沌とした状況だった。ヒトラーとしては社会主義的傾向の強いゲッベルスを置くことでベルリン革命志向党員たちを納得させ、一つにまとめさせることを期待したとみられるベルリン行きナチ党内では貧乏くじ見られていたが、ゲッベルス引き受けることにした。ベルリン着任後、ヒトラー全権委任と自らの権力を盾に喧嘩ばかりしているベルリン・ナチ党員の間に割って入り統率押し通したゲッベルス赴任当時ベルリン党組織惨状について後の著書ベルリンの戦い』(1932年)の中でこう書いている。「当時ベルリンで党と称していた物は、全くそう呼ぶに値しなかった。それは何百人かの国家社会主義的な考え方をしている人間がただ入り乱れてとぐろを巻いている集まりで、その一人一人国家社会主義について、自己流私的な意見持っていた。そしてその意見というのは、普通国家社会主義ということ理解されている物とはほとんど関わりがなかった。各グループでの殴り合い日常茶飯事だった。ありがたいことに世間はそれに注意は払わなかった。運動自体が数から言って問題にもならなかったからである。こんな党に行動力はない。政治闘争への投入不可能だった統一的な形を与え共同意志吹き込んで新しい、熱い衝動与えねばならなかった。」 ゲッベルス不良党員追放から開始しベルリン1000人の党員のうち400人を追放したベルリン大管区赤字財政立て直すために残った党員たちに毎月3マルク負担金課した失業中の者はその半額)。自らの演説会有料にした。大管区指導者事務所ポツダム街の地下室からリュッツォー街のアパート二階移し政党事務所らしく変えたゲッベルスは党の宣伝ポスターデザインに気を使った当時予算問題から黒字ばかりの味気ないポスター多かったが、ゲッベルス借金をしてでも印刷屋に刺激的なポスター作成させた。そのためナチ党ポスターベルリン人々人目を引くようになった。またゲッベルス政治ポスター大きない文字見出しぎょっとするような訳の分からぬ文句を書く手法好んだアメリカ皇帝 ベルリンにて演説す。 気になった通行人次々と立ち止まって続き読んだ。これの内容ドーズ案ヤング案アメリカ資本主義産物であると攻撃する物で、さらに何日のどこの集会ヨーゼフ・ゲッベルス博士演説する旨の広告付けられていた。また他人から浴びせられる罵倒さえもうまく利用した。ある新聞が「ナチ山賊」と批判してこの言葉が広まるとゲッベルスは自ら「山賊首領ヨーゼフ・ゲッベルス」などという刺激的な肩書ポスターに付けて人々関心集めた殴り合いニュースになりやすいことから突撃隊ドイツ共産党戦闘部隊赤色戦線戦士同盟殴り合い積極的に行わせ、負傷した突撃隊員を積極的に宣伝材料にした。1927年2月には共産党党大会会場として使っていたファールス会場ドイツ語版)を借りてナチ党の党集会を行うという挑発行為行い、これに激怒した共産党赤色戦線戦士同盟殴りこみを行わせたことで「ファールス会場戦い」と呼ばれる大乱闘発展している。一方で共産党ヴァイマル憲法による議会制民主主義体制を「ブルジョワ共和政」として敵視している党だったので、ヴァイマル共和国官憲対す闘争はしばし共闘することがあった。そのためゲッベルスは、共産党に「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情持っていた。 ナチ党取りまろうとする警察には強い批判加え、特にユダヤ人ベルリン警視総監ベルンハルト・ヴァイス徹底的に攻撃した。彼をユダヤ人名である「イジドール」の名前で呼び、この名前がベルリン市民に広まってヴァイスは「イジドール・ヴァイス」と巷で呼ばれるようになり、ナチ党以外の市民からも多くの場でからかいネタにされた。 警察ナチ党対立深刻化し1927年5月5日警察から大ベルリン地区におけるナチ党党活動禁止された。以降ゲッベルスは党集会ピクニックハイキングなどと偽装して開催することを余儀なくされた。次いで警察ゲッベルスはじめナチ党幹部国会議員は除くとされた)個人公の場での演説プロイセン州全域において禁止した。この強烈な弾圧についてゲッベルス著書ベルリンの戦い』の中でこう書いている。「僕としては公開の場で演説禁止されたことが一番こたえた当時の僕は演説すること以外に党の同志との接触手段をもたなかったからだ。口で話す言葉は常に文字印刷した言葉より重要である。特にその頃の我々の印刷設備お粗末なもので、言論十分に印刷して流すことはできなかった。」。ゲッベルス国会議員ナチ党員が演説中に客席から立ちあがって発言を行うといった偽装演説をしようとしたが、警察にばれて告発され罰金課されている。 1927年7月4日に『デア・アングリフ』紙を発刊して、紙面における言論活動転じた。『フェルキッシャー・ベオバハター』紙はじめ他のナチ党新聞同じく反ユダヤ主義反共主義基調としたが、他のナチ党新聞比べる資本家攻撃が多いのが特徴的ゲッベルスナチス左派性向見受けられる1927年10月29日ゲッベルス誕生日あわせて警察事前許可を取るという条件付き彼に演説することを許可した

※この「ベルリン大管区指導者」の解説は、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の解説の一部です。
「ベルリン大管区指導者」を含む「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事については、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の概要を参照ください。

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