ベルリン大管区指導者
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「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「ベルリン大管区指導者」の解説
その後、すっかりシュトラッサー兄弟やカウフマンと疎遠になったゲッベルスは、ヒトラーからミュンヘンへ招集される日を心待ちにしていた。しかし1926年10月末、ヒトラーがゲッベルスに下した辞令は「ベルリン=ブランデンブルク大管区指導者」であった(なおグレゴールにはこの際に「宣伝全国指導者」の職が与えられた)。当時のベルリンは「赤いベルリン」と揶揄されるほど共産主義者や革命主義者が多かった。ベルリンのナチ党員はわずか1000人に過ぎず、しかも北部はシュトラッサー兄弟の本拠であったのでナチ党員にも革命主義者が多かった。でありながらシュトラッサー兄弟も大管区指導者エルンスト・シュランゲ(ドイツ語版)もベルリンのナチ党をまとめきれず、ベルリン突撃隊指導者クルト・ダリューゲや既に離党したはずのハインツ・ハウエンシュタイン(ドイツ語版)などが独自に指揮権を行使しているような混沌とした状況だった。ヒトラーとしては社会主義的傾向の強いゲッベルスを置くことでベルリンの革命志向の党員たちを納得させ、一つにまとめさせることを期待したとみられる。ベルリン行きはナチ党内では貧乏くじと見られていたが、ゲッベルスは引き受けることにした。ベルリン着任後、ヒトラーの全権委任と自らの権力を盾に喧嘩ばかりしているベルリン・ナチ党員の間に割って入り、統率権を押し通した。 ゲッベルスは赴任当時のベルリンの党組織の惨状について後の著書『ベルリンの戦い』(1932年)の中でこう書いている。「当時ベルリンで党と称していた物は、全くそう呼ぶに値しなかった。それは何百人かの国家社会主義的な考え方をしている人間がただ入り乱れてとぐろを巻いている集まりで、その一人一人が国家社会主義について、自己流で私的な意見を持っていた。そしてその意見というのは、普通国家社会主義ということで理解されている物とはほとんど関わりがなかった。各グループでの殴り合いは日常茶飯事だった。ありがたいことに世間はそれに注意は払わなかった。運動自体が数から言って問題にもならなかったからである。こんな党に行動力はない。政治闘争への投入は不可能だった。統一的な形を与え、共同の意志を吹き込んで、新しい、熱い衝動を与えねばならなかった。」 ゲッベルスは不良党員の追放から開始し、ベルリンの1000人の党員のうち400人を追放した。ベルリン大管区の赤字財政を立て直すために残った党員たちに毎月3マルクの負担金を課した(失業中の者はその半額)。自らの演説会も有料にした。大管区指導者事務所もポツダム街の地下室からリュッツォー街のアパートの二階へ移し、政党の事務所らしく変えた。 ゲッベルスは党の宣伝ポスターのデザインに気を使った。当時は予算の問題から黒字ばかりの味気ないポスターが多かったが、ゲッベルスは借金をしてでも印刷屋に刺激的なポスターを作成させた。そのためナチ党ポスターはベルリンの人々の人目を引くようになった。またゲッベルスは政治ポスターに大きな赤い文字の見出しでぎょっとするような訳の分からぬ文句を書く手法を好んだ。 アメリカ皇帝 ベルリンにて演説す。 気になった通行人は次々と立ち止まって続きを読んだ。これの内容はドーズ案とヤング案をアメリカ資本主義の産物であると攻撃する物で、さらに何日のどこの集会でヨーゼフ・ゲッベルス博士が演説する旨の広告が付けられていた。また他人から浴びせられる罵倒さえもうまく利用した。ある新聞が「ナチは山賊」と批判してこの言葉が広まるとゲッベルスは自ら「山賊首領ヨーゼフ・ゲッベルス」などという刺激的な肩書をポスターに付けて人々の関心を集めた。 殴り合いはニュースになりやすいことから突撃隊とドイツ共産党の戦闘部隊赤色戦線戦士同盟の殴り合いも積極的に行わせ、負傷した突撃隊員を積極的に宣伝の材料にした。1927年2月には共産党が党大会の会場として使っていたファールス会場(ドイツ語版)を借りてナチ党の党集会を行うという挑発行為を行い、これに激怒した共産党が赤色戦線戦士同盟に殴りこみを行わせたことで「ファールス会場の戦い」と呼ばれる大乱闘に発展している。一方で共産党もヴァイマル憲法による議会制民主主義体制を「ブルジョワ共和政」として敵視している党だったので、ヴァイマル共和国官憲に対する闘争ではしばしば共闘することがあった。そのためゲッベルスは、共産党に「血をわけた赤いごろつきども」という愛憎相半ばした感情を持っていた。 ナチ党を取り締まろうとする警察には強い批判を加え、特にユダヤ人のベルリン副警視総監ベルンハルト・ヴァイスを徹底的に攻撃した。彼をユダヤ人名である「イジドール」の名前で呼び、この名前がベルリン市民に広まってヴァイスは「イジドール・ヴァイス」と巷で呼ばれるようになり、ナチ党員以外の市民からも多くの場でからかいのネタにされた。 警察とナチ党の対立は深刻化し、1927年5月5日、警察から大ベルリン地区におけるナチ党の党活動が禁止された。以降ゲッベルスは党集会をピクニックやハイキングなどと偽装して開催することを余儀なくされた。次いで警察はゲッベルスはじめナチ党幹部(国会議員は除くとされた)個人の公の場での演説もプロイセン州全域において禁止した。この強烈な弾圧についてゲッベルスは著書『ベルリンの戦い』の中でこう書いている。「僕としては公開の場で演説を禁止されたことが一番こたえた。当時の僕は演説すること以外に党の同志との接触手段をもたなかったからだ。口で話す言葉は常に文字に印刷した言葉より重要である。特にその頃の我々の印刷設備はお粗末なもので、言論を十分に印刷して流すことはできなかった。」。ゲッベルスは国会議員のナチ党員が演説中に客席から立ちあがって発言を行うといった偽装で演説をしようとしたが、警察にばれて告発されて罰金を課されている。 1927年7月4日に『デア・アングリフ』紙を発刊して、紙面における言論活動に転じた。『フェルキッシャー・ベオバハター』紙はじめ他のナチ党新聞と同じく反ユダヤ主義と反共主義を基調としたが、他のナチ党新聞と比べると資本家攻撃が多いのが特徴的でゲッベルスのナチス左派の性向が見受けられる。1927年10月29日、ゲッベルスの誕生日にあわせて警察は事前許可を取るという条件付きで彼に演説することを許可した。
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