バロックとロココ
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新古典主義の時代(18世紀末~)になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われたが、その後、時代一般の美術・文化の傾向を指す用語として、広く使われるようになった。ロココ様式(スタイル)、ロココ建築、ロココ趣味などと使う。豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココともいわれるが、両者の境界は必ずしも明確ではなく、ロココはバロックの一種と考える人もいる。
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バロックとロココ
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詳細は「バロック#彫刻」および「ロココ#彫刻」を参照 バロック彫刻においては、人の集まりが新たな重要性と見なされ、人物の形にダイナミックな動きとエネルギーが備わり、彼らは何もない中央渦の周りに巻きこまれるようだったり、外側へと周りの空間に手を伸ばしたりした。バロック彫刻にはしばしば複数の理想的な視野角があり、ルネサンスの全体的な継続を反映してレリーフから丸彫りにて製作する彫刻へと移行し、その像は広い空間の中央に配置するように設計されていた。ジャン・ロレンツォ・ベルニーニによる四大河の噴水(ローマ、1651年)やヴェルサイユ宮殿の庭にある噴水がバロック期の傑作である。バロック様式は彫刻と完全に合致しており、『聖テレジアの法悦』(1647-1652年)などの作品でベルニーニがこの時代を支配する人物だった。バロック彫刻の大部分は彫刻とは別の要素(例えば、間接照明、噴水、建造物と融合した彫刻など)を追加しており、見る者達に変革的な体験を創出した。芸術家は自身を古典的伝統だと見なしていたが、今日見られるような「古典期」時代のものよりも、ヘレニズム彫刻やその後のローマ彫刻を賞賛した。 宗教改革が北欧の大部分で宗教的彫刻のほぼ完全な停止をもたらし、とはいえ世俗的な彫刻(特に肖像の胸像や墓の慰霊碑など)は続いており、オランダ黄金時代は金細工以外に重要な彫刻の構成部分がなかった。部分的な反応ではあるが、彫刻はローマカトリックで中世後期と同じくらい隆盛だった。支配者や貴族の像はますます普及するようになった。18世紀に入ると大半の彫刻がバロックの系譜で続き、1762年にトレビの泉が完成したのみである。ロココ様式は小型の作品に適しており、恐らく欧州初期のポーセリン(磁器)にて理想的な彫刻の形を見いだされ、フランス家屋の内装であったりオーストリアやバイエルンの巡礼教会などで木造や石膏製の内装装飾が見つかっている。 アントワーヌ・コワズヴォ作『ルイ14世胸像』1686年 フランチェスコ・モーキ作『聖ヴェロニカ』1640年。サン・ピエトロ寺院所蔵 ピエール・ピュジェ作『ペルセウスとアンドロメダ』1715年。ルーヴル美術館所蔵 フランツ・アントン・ブステッリ作、ロココ期ニンフェンブルク宮殿のポーセリン作品群
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