ノストラダムスの存命中の関連年表
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「ノストラダムス」の記事における「ノストラダムスの存命中の関連年表」の解説
1503年12月14日(木曜日) - 誕生。 1518年頃 ? - アヴィニョン大学で自由七科を学んだとされる。 1520年 - 学業を中断したと推測されている。 1521年 - 各地を遍歴し、薬草の採取や関連する知識の収集につとめる(- 1529年)。 1529年10月23日 - モンペリエ大学医学部に入学。 1531年 - アジャンでアンリエット・ダンコス(Henriette d'Encosse)と最初の結婚。 1530年代後半 ? - 最初の妻と子どもをペストで失う。以降放浪したとされる。 1540年代 - 手稿『オルス・アポロ』を執筆。 1546年 - エクス=アン=プロヴァンスでペストの治療に当たる。 1547年 - サロン・ド・クローに転居。以降、定住。 1547年11月11日 - アンヌ・ポンサルド(Anne Ponsarde)と再婚。 1549年頃 - 1550年向けの暦書類を刊行する。以降、1551年向けを除き、1567年向けまで毎年刊行される。この一連の刊行物の中で初めて「ノストラダムス」の名を用いたとされる。 1551年頃 - 長女マドレーヌ誕生。 1553年11月 - 翌年向けの暦書類について粗雑な版を組んだ業者とトラブルになる。 1553年12月18日 - 長男セザール誕生。 1554年 - 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』がニュルンベルクで出版される。 1555年 - 『化粧品とジャム論』の初版を刊行する。 1555年5月4日 - 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版を刊行する。 1555年8月 - 国王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスに謁見。 1556年頃 - 次男シャルル誕生。 1556年 - アントワーヌ・クイヤールが『ル・パヴィヨン・レ・ロリ殿の予言集』を刊行する。これは『予言集』のパロディであり、最初の風刺文書である。 1557年 - 『ガレノスの釈義』初版を刊行する(翌年には再版される)。 1557年9月6日 - 『予言集』の増補版を刊行する。 1557年11月3日 - 三男アンドレ誕生。 1557年11月3日 - 『予言集』増補版の粗雑なコピーが刊行される。 1557年頃 - イタリア語訳版の暦書が刊行される。初のイタリア語訳版。 1557年 - 『ノストラダムスに対するエルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が刊行される。この頃からノストラダムスを非難する文書が複数刊行される。 1558年 - 『予言集』の完全版が出されたという説もある。 1558年 - 『エルキュール・ル・フランソワ殿の最初の反論』が再版される(タイトルが「モンストラダムスに対する」になる)。同じ年にジャン・ド・ラ・ダグニエール、ローラン・ヴィデルらも中傷文書を刊行した。 1559年 - 英訳版の暦書類が刊行される。初の英訳版。 1559年7月10日 - アンリ2世が没する。ノストラダムスはこれを予言していたとされるが、彼の生前に喧伝されていた詩(百詩篇第3巻55番)は、現在結び付けられている詩(百詩篇第1巻35番)とは別の詩である。 1559年12月15日 - 次女アンヌ誕生。 1560年 - ロンサールが『ギヨーム・デ・ゾーテルへのエレジー』においてノストラダムスの名を詩に織り込む。 1561年 - 夏ごろ、ジャン・ド・シュヴィニー(のちのジャン=エメ・ド・シャヴィニー)を秘書として雇う。 1561年 - 三女ディアーヌ誕生。 1561年頃 - パリで『予言集』の海賊版が刊行される。この版を刊行した業者バルブ・ルニョーは、前後する時期に、暦書の偽版2種類と海賊版と思しき版1種類も刊行している。 1563年頃 - この頃から「ミシェル・ド・ノストラダムス (Michel de Nostrdamus, Mi. de Nostradamus)」と名乗る偽者が著作を発表し始める。 1564年10月17日 - フランス全土を巡幸していた国王シャルル9世と母后カトリーヌ・ド・メディシスがサロンを訪れ、ノストラダムスと会見。ノストラダムスはアルルで、「常任侍医兼顧問」(Conseiller et Medecin ordinaire au Roy) の称号を受けたとされる。 1566年 - 『王太后への書簡』を刊行する。 1566年 - オランダ語訳版の暦書が刊行される。初の、そして唯一のオランダ語訳版。 1566年6月17日 - 公証人を呼んで遺言書を口述(6月30日に追補)。 1566年7月1日 - 秘書シュヴィニー(シャヴィニー)がノストラダムスの就寝前に最期の言葉を交わしたとされる。 1566年7月2日未明 - 長男セザールによってノストラダムスの死が確認される。
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