ノストラダムスの兄弟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/22 14:32 UTC 版)
「ノストラダムス関連人物の一覧」の記事における「ノストラダムスの兄弟」の解説
ノストラダムスの兄弟(デルフィーヌ、ジャン、ピエール、ルイ、エクトール、ベルトラン、2人目のジャン、アントワーヌ)のうち、弟のピエールとルイは名前と職業しか伝わっていない。2人目のジャンに至っては実在性自体が定かではない。 デルフィーヌ(ドフィーヌ)・ド・ノートルダム(Delphine ou Dauphine de Nostredame) 兄弟の中でも年上の方だったと推測されている女性。1518年以前に生まれたが、正確な生没年は未詳である。いくつかの記録から未婚のまま長生きしたらしいことが指摘されているが、余り詳しいことは分かっていない。 エクトール・ド・ノートルダム(Hector de Nostredame) ノストラダムスの弟の一人。1518年以前に生まれており、1577年に世帯の記録が消えている。サン=レミに住んでいたことと、1546年に結婚した妻の名前がアントワネット(またはトネート)・モルゲート(Antoinette ou Thonète Morguète)で、1558年に生まれた娘の名がフロリモンド(Florimonde)だったというくらいしか明らかになっていない。 ベルトラン・ド・ノートルダム(Bertrand de Nostredame) ノストラダムスの弟の一人(1518年 - 1602年頃)。サン=レミの富裕な商人で、プロヴァンス総督のタンド伯に武官として使えていたこともあった。ラマノンの由緒ある家柄の出身とされる妻トミーヌ・ルースとの間に、6人の子供(クロード、ジャンヌ、ジャン、カトリーヌ、リュクレース、ブランシュ)をもうけた。 ノストラダムスの再婚は、このベルトラン夫妻のすすめだったとも言われる。 ジャン・ド・ノートルダム ノストラダムスの弟の一人(1507年もしくは1522年 - 1577年)。『化粧品とジャム論』第二部は、この人物に捧げられている。 エクス=アン=プロヴァンス高等法院の判事を務める一方で、郷土史研究を行い、『古代プロヴァンスの名だたる詩人たちの生涯』(1575年)を著した。 アントワーヌ・ド・ノートルダム(Antoine de Nostredame) ノストラダムスの弟の一人(1523年 - 1597年以降)。1523年4月27日に洗礼を受けた記録があることからその頃に生まれたと推測されており、1597年までは公文書類での言及が見られることから、少なくともその頃までは生きていたことが明らかになっている。徴税吏や判事を一時的に務め、サン=レミ市の要職に就いたこともあった。妻ルイーズ・ベルルとの間には少なくとも10人の子供(ジャン、エクトール、ジャンヌ、クロード、アンヌ、カトリーヌ、デルフィーヌ、ピエール、ブノワ、ダマリー)がいた。
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