ソ連の対日参戦協定
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1943年10月:モスクワにおいて米・英・ソ三国外相会談が開かれる(モスクワ会談)。スターリンの通訳によれば、10月30日に開催されたクレムリンのエカテリーナ広間晩餐会で、スターリンは隣に座るハル国務長官に対し、ドイツ戦終了と同時に対日参戦することをソ連の意思として伝えた。ただし、耳打ちという形で告げられ、当分の間秘密とされた。 11月末、イランのテヘランにおいて、米・英・ソ首脳会談が開かれる(テヘラン会談)。この会談でルーズベルトとチャーチルは、1944年の5月までにヨーロッパで第二次戦線を開くことを約束した。その見返りにスターリンは、ドイツ敗戦の後に対日戦争に参加することをはっきり約束し、そのためにいかなる「要望」を提出するかは、後で明らかにすると言明した。 テヘラン会談の直前、カイロで米・英・中三国による首脳会談が開催される。米・英・中三大同盟国は日本国の侵略を制止し、罰するために戦争をしていること、日本の無条件降伏を目指すことが宣言された(カイロ宣言)。カイロ宣言では、第一次世界大戦以後に日本が諸外国より奪取した太平洋諸島の領土を剥奪すること、台湾・満州の中国への返還、日本が暴力・貪欲により略取した地域からの駆逐が定められている。南樺太や千島列島については触れられていない。 1944年12月14日:スターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して南樺太や千島列島などの領有を要求する。これがのちにヤルタ協定に盛り込まれることとなる。 1945年1月 - 8月:戦時下の国際情勢2月、ソ連のヤルタで連合国のうち米国・英国・ソ連の3首脳が会談した(ヤルタ会談)。ここで、連合国がのちに第二次世界大戦に勝利した場合における戦勝国間での戦勝権益の世界分割が話し合われた。大日本帝国を早期に敗北に追い込むため、のちにナチス・ドイツを降伏(ヨーロッパ戦勝記念日)させた場合にはその3か月後にソ連が対日参戦することが約束された。そのための条件として、「日本の降伏後には南樺太をソ連に返還し、クリル列島(千島列島)をソ連に引き渡す」とした極東密約を首脳らは結んだ(ヤルタ協定)。 4月5日:ソ連の外相モロトフが、日ソ中立条約の失効を日本側へ通告した。日ソ中立条約の規約では、この条約は5年間有効であり、締結の5年後にあたる期間満了日から1年以上前にどちらかの国が失効を通告しない場合は、自動的に5年間延長されることになっていた。この通告によって、同条約は翌1946年4月25日に失効することになった。この通告を、日本側は条文にもとづいて「条約は翌年の期間満了日に失効する(その日までは有効)」と解釈したが、ソ連側はのちに「条約は当日からすでに失効した」という意味の通告だったとしている。 7月17日 - 8月2日:ソ連が占領するポツダムで、再び米国・英国・ソ連の3首脳が会談した(ポツダム会談)。ここでソ連は米国と英国に対し、ソ連に対日参戦を求める内容を明文化することを要求した。理由は日ソ中立条約がいまだ有効期間内であったためである。7月26日、米国・英国・中華民国の3国による、日本の降伏を要求する共同声明(ポツダム宣言)が発表された。
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