アロー号拿捕事件とは? わかりやすく解説

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アロー号拿捕事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:58 UTC 版)

アロー戦争」の記事における「アロー号拿捕事件」の解説

1839年9月武力行使始まったアヘン戦争講和条約として、1842年締結され南京条約規定により、英国清国対し従来広東広州)に加えて厦門福州寧波上海の計5港を開港させ、それぞれに領事を置くこと、さらには香港割譲認めさせた。そして、広東十三行のような特許商人貿易独占して徴税請負行い外国商人外国船の保証人となって、それらを強い、統制下に置く、という従来制度廃止させた。また、南京条約締結後一年の間に結ばれた協定により、公正公平な関税率設定領事裁判権最恵国条項開港五港それぞれ軍艦一隻停泊できる権利などが取り決められた。また清国中央政府は公式には認めていないが、当時欽差大臣耆英長江河口以南アヘン貿易非公式に黙認した南京条約及びその後結ばれた協定により、香港駐在する英国公使香港総督対す中国側外交窓口は、広東広州)にほぼ常駐することとなる広東欽差大臣が担うこととなった。これによって、英国側の清国官吏との接触方法が、アヘン戦争前の公行商人介在させた間接的な仕組みから大きく改善し直接接触が可能となった。また開港五港の各英国領事は道(省の下に置かれた行区分)に置かれた道台(道の長官)と接触することが可能となった。しかし北京外交使節常駐することは認められなかった。 またアヘン戦争後、広東広州内外住民の間で外国人排斥運動が盛んとなった1842年12月には大規模な広州英国商館焼き打ち事件起こった。この時期から英国人対象とした暴動頻発するうになる1846年1月両広総督耆英広東巡撫黄恩彤は広州城壁囲まれ中国人町に英国人入城することをいったん認めたが、これに反対する群衆広州府知府執務処と住居焼き打ちしたため英国人入城許可取消した。1847年3月には広州に近い仏山鎮で英国人6名、米国人1名が住民から投石を受けるという事件が発生した。これへの仇戦として香港から軍艦派遣して広州港の英国商館街を占領した[誰によって?]。その後1847年12月には広州から3マイル上流の黄竹岐で英国青年6名が切り殺されるという事件が起こったその後再び入城問題について再提起され後任者交渉開始するものの清国側方針定まらず入城問題一時棚上げされた。激しくなる排外主義活動取り締まるよう、時の英国外大臣パーマストン北京清朝政府に強い抗議行った1850年代初期の英清関係において外交面と通商面の2つ側面から問題浮かび上がってきていた。南京条約改正交渉1854年から開始された。 まず外交面では英国英国公使香港総督清国広東欽差大臣との交渉では、入城問題通じて欽差大臣清国中央との意思統一がされず大い混乱した英国政府は、清朝中央政府直接交渉試みたが、清国中央政府は、外交窓口広東欽差大臣であるとしてこれを突きかえした英国政府にとっては英国人広州入城権利と他の滞在地での安全確保をいかに実行するということ喫緊の課題であったが、広東欽差大臣との交渉混乱により遅々として進まなかったため、英国は、北京清国中央直接交渉できるような体制作ることが是非とも必要であると考えようになった。これは後に北京常駐外交使節団常駐公使館設立志向することにつながった通商面では、現状開港五港以外に蘇州杭州のような便の良い都市新たに開港することと、汚職蔓延し機能不全おこしている、旧態依然とした既存徴税機構代わり、公正公平な徴税機構新たに作ることが喫緊の課題であった英国外大臣パーマストンは、これらの問題解決を図るために清国対し再び武力行使をする決意固め1851年12月外務大臣辞職し1855年1月首相として政界に復帰した。しかし当初開戦理由として相応し開戦原因がなかったため、武力行使準備だけは十分に整えていつでも武力行使にすぐに踏み切れ体制整えていた。 そのような状況下で起きたのがアロー号事件であった1856年10月8日に清の官憲イギリス船籍名乗る中国アロー号臨検行い清人船員12名を拘束しそのうち3人を海賊容疑逮捕した残り抗議釈放)。これに対し当時広州領事ハリー・パークスは、清の両広総督欽差大臣である葉名琛に対してイギリス香港船籍の船に対す清国官憲臨検不当であると主張し、また逮捕時に清の官憲イギリスの国旗引き摺り下ろした事は、イギリス対す侮辱だとして抗議した葉名琛はこれに対して国旗当時掲げられていなかったと主張したが、パークス強硬に自説主張し交渉決裂した実際には、事件当時に既にアロー号船籍登録は期限数日過ぎており、アロー号にはイギリスの国旗掲げ権利は無いし、官憲によるアロー号船員逮捕は全くの合法であった。しかし、清国側葉名琛基本的な事実関係の調査を全く行わず、この事実に気がつかなかった。パークスの方もどうやら、期限切れの件は知らなかったようであり、後に議会問題になっている。[独自研究?]

※この「アロー号拿捕事件」の解説は、「アロー戦争」の解説の一部です。
「アロー号拿捕事件」を含む「アロー戦争」の記事については、「アロー戦争」の概要を参照ください。

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