アッバース朝以後とは? わかりやすく解説

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アッバース朝以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 21:58 UTC 版)

イスラム教」の記事における「アッバース朝以後」の解説

ウマイヤ朝では、ワリードが死ぬと、子のウマル2世継いだが、彼の治世文治政策後世史家評判良いその後は、短命だったり暗愚カリフが相次ぎウマイヤ朝元来、その構造抱えた問題シリア優先主義アラブ人改宗者マワーリー)の不平等)のために、相変わらず反乱頻発した最後君主マルワーン2世は、首都ユーフラテス川上流のハルラーンに移し反乱大部分鎮定し再発防止シリア都市の城壁撤去行った。 こうして、ウマイヤ朝は自らの手本拠地シリア破壊の手加えてしまい、直後起きたアッバース家反乱あえなく敗れ去った政権移行大きな体制の変化伴ったため、これをアッバース革命という。 前代ウマイヤ朝シリア重視主義だったのに対してアッバース朝では、傾向としてイラン重視され、アラブムスリムと非アラブムスリムの間の租税待遇平等化された。政権発足当初百年間は、政治・経済はもちろん、文化面でも繁栄し官僚体制インフラ整備された。(対してウマイヤ朝は、部族制の延長的なところがあった。) 一方で前嶋信次は、「しかし、ウマイヤ朝は、白衣白旗烈日がてりりはえて、どこか陽気で野放図なところがあったのに、アッバース朝の方は黒旗黒衣で、なにか重苦しく暗い影付きまとう感じ与えるが、なぜであろう」とこの時代評価一石を投じる政権交代にあたってウマイヤ家の者達は、徹底的に捜索され捕縛虐殺された。また、整備され官僚制徹底したカリフ神聖視結果、人とカリフの間を文武百官の層が隔てるようになり、人民カリフの距離は、いよいよ遠くなった。 前嶋は、「ウマイヤ朝カリフたちは人間くさいというか俗っぽいというか古代アラビア気風濃厚であったが、アッバース朝帝王たちは、だんだん神がかった存在になって一般民とは隔絶され半神半人のごときもの思われるいたった」と評価するアッバース朝カリフ初代は、アッラー現世示した影、と言われ二代目からは、「アッラーによって導かれたもの」「アッラーによって助けられたもの」といういかめしい称号帯びようになったこうした中、領土拡張停止に伴いイスラム教伝搬下り坂になるが、他方イスラム商人交易通してその後の数世紀間に、東南アジアアフリカ中国などイスラム教もたらされ一部イスラム教国もしくは回族地域とすることに成功した。 しかし、同時にアッバース朝時代には、イベリア半島ウマイヤ家残存勢力建てた後ウマイヤ朝北アフリカシーア派ファーティマ朝起こり、ともにカリフ称しカリフ鼎立する一方各地地方総督独立していった。

※この「アッバース朝以後」の解説は、「イスラム教」の解説の一部です。
「アッバース朝以後」を含む「イスラム教」の記事については、「イスラム教」の概要を参照ください。

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