『水源』と積極的政治活動
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「アイン・ランド」の記事における「『水源』と積極的政治活動」の解説
1940年代、ランドは政治活動に積極的に関与するようになった。1940年の大統領選挙でランドは、夫と共に、共和党ウェンデル・L・ウィルキー (Wendell Lewis Willkie) 陣営のボランティア専従スタッフとして活動した。この活動の過程で、ランドは初めて公衆を前に演説する経験をした。ニューヨーク市では、ウィルキー支持のニュース映画を見たばかりの聴衆から、時に敵意をむき出しにした質問を受けることもあった。ランドはこうした敵意ある質問にも当意即妙に答えた。これはランドにとって非常に楽しい経験だった。またこの活動により、自由市場資本主義を支持する知識人達との交流も生まれた。ジャーナリストのヘンリー・ハズリット (Henry Hazlitt) 夫妻と友人になり、ハズリットの紹介でオーストリア学派の経済学者ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス (Ludwig von Mises) とも知り合った。ランドと彼らの間には思想的相違があったが、ランドはハズリットとミーゼスの著作を生涯にわたり支持し、彼らもランドへの賞賛を表明した。ミーゼスはランドのことを「the most courageous man in America(アメリカで最も勇敢な人)」と述べたことがある。この賛辞はランドを特に喜ばせた。ミーゼスがランドを「woman」ではなく「man」と呼んだからである。ランドはリバタリアンの作家イザベル・パターソンとも友情を育んだ。二人は幾度となく会った。博識なパターソンに、ランドは夜遅くまでアメリカの歴史や政治について尋ねた。パターソン唯一のノンフィクション『The God of the Machine』には、ランドが与えたアイデアが反映されている。 執筆に7年を費やし、1943年に出版されたロマンス思想小説『水源』(The Fountainhead)は、作家アイン・ランド初の大ヒット作となった。この小説は、妥協しない若き建築家ハワード・ロークと、「second-hander(セコハン人間、受け売り人間)」との対立を中心に描かれている。セコハン人間とは、他人を自己より上位に置き、他人を通じて生きようとする人々である。『水源』はボブスメリル社 (Bobbs-Merrill Company) が出版を引き受ける前に、12の出版社から出版を拒否されている。ボブスメリル社が『水源』の出版引き受けを決めたのは、同社の編集者アーチボルド・オグデン (Archibald Ogden) が、『水源』を出版しなければ会社を辞める、と雇い主を脅したからである。『水源』の仕上げにかかっている間、疲労と闘うため、ランドは「ベンゼドリン」という商品名のアンフェタミン(中枢神経刺激薬)の処方を受けていた。この薬は原稿を締め切りに間に合わせるための長時間執筆に役立ったが、ランドは疲弊し切り、原稿完成時、医師から2週間の安静を命じられたほどであった。この薬を約30年にわたり使用し続けたことが、後に彼女と付き合った人々から、気分の移り変わりが激しいと時に評される一因だった可能性がある。 『水源』は最終的に世界的成功を収め、ランドに名声と経済的安寧をもたらした。1943年、ランドはこの小説の映画化の権利をワーナー・ブラザース社に売却し、同映画の脚本を書くためハリウッドに戻った。『水源』映画版(邦題「摩天楼」)の脚本を完成させると、ランドは映画プロデューサーのハル・ウォリス (Hal Wallis) に、脚本家兼スクリプトドクターとして雇われた。ウォリスの下でランドが脚本を書いた映画には、アカデミー賞にノミネートされた「ラブ・レター」(Love Letters、1945年)や「大空に駈ける恋」(You Came Along、1945年)などがある。この間、ランドには他のプロジェクトに関わる余裕ができた。こうしたプロジェクトの一つに、彼女の思想をノンフィクションの形で論じた『個人主義の道徳的基礎』(The Moral Basis of Individualism)の執筆計画があった。計画された本は完成しなかったが、この本の内容を要約した『明日への唯一つの道』(The Only Path to Tomorrow)というエッセイが、「リーダーズ・ダイジェスト」(Reader's Digest)誌の1944年1月号に発表された。 ハリウッドで働く間、ランドは、自由市場を擁護し共産主義に反対する政治活動への関与を深めた。ハリウッドの反共産主義グループ「アメリカの理想を守るための映画同盟」 (Motion Picture Alliance for the Preservation of American Ideals) と関係を持つようになり、このグループの立場からの記事を複数書いた。反共産主義アメリカ作家協会 (the anti-Communist American Writers Association) の一員にもなった。イザベル・パターソンがランド宅を訪れ、カリフォルニアに住むランドの盟友たちに会った時、パターソンは、ランドの大切な盟友たちに向かって無礼な(とランドが見なす)発言をした。パターソンとランドの不和はこの発言で決定的となった。1947年、第二次赤狩りの間、ランドはアメリカ合衆国議会下院の非米活動委員会 (Un-American Activities Committee) で「友好的証人」(friendly witness) として証言台に立った。ランドは、ソ連での彼女の個人的経験と、映画「Song of Russia」(1944年)で描かれたソ連像がかけ離れていることを証言した。ランドはこの映画が、ソ連での生活を実際よりもはるかに良好かつ幸福に描くことで、ソ連の状況を著しく歪めていると主張した。ランドはまた、当時評判だった映画「我等の生涯の最良の年」(The Best Years of Our Lives、1946年)がビジネス界をネガティブに描いている(と彼女が解釈した)点の批判も希望したが、この点についての証言は許可されなかった。聴聞の後、調査の有効性をどう思うか尋ねられたランドは、このプロセスは「無駄骨」(futile) だったと答えている。 『水源』(The Fountainhead)の映画版(邦題「摩天楼」)は、数回の遅延の後、1949年に公開された。ランド自身による脚本をほぼそのまま使用した映画だったが、ランドはこの映画を「初めから終わりまで嫌い」で、編集、演技などさまざまな要素への不満を述べた。
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