羽柴秀勝 (石松丸) 羽柴秀勝 (石松丸)の概要

羽柴秀勝 (石松丸)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/02 04:42 UTC 版)

 
羽柴秀勝
羽柴秀勝肖像(滋賀県妙法寺所蔵)
時代 安土桃山時代
生誕 生年不詳、[一説に]元亀元年(1570年)または天正元年(1573年)あるいは天正2年(1574年)など
死没 天正4年10月14日1576年11月4日
別名 幼名:石松丸、または石松
戒名 本光院朝覺居士
主君 豊臣秀吉
氏族 木下氏羽柴氏豊臣氏
父母 父:豊臣秀吉、母:諸説あり
兄弟 秀勝、女児、鶴松秀頼
義兄弟:秀勝(於次丸)秀俊秀次秀勝(小吉)豪姫秀家秀康
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他の秀勝(於次丸秀勝小吉秀勝)と区別するため、史家は便宜上、石松丸秀勝(または石松秀勝)と呼ぶことがある。

略歴

秀吉が長浜城主時代にもうけた初めての男児であったという伝承がある。生母には諸説あるが、いずれの場合も側室で、秀勝は庶長子である。

「秀勝」の名は、羽柴氏の由来と同じく、織田家の宿老丹羽長の秀と柴田の勝の両名の偏諱を受けたものであると考えられている[1]が、同様に史料的裏付けはない。秀吉は後になって、養子とした織田信長の四男三好吉房の次男にも同じ名を付けた。

天正4年(1576年)10月14日、秀勝は死去した。

長浜に今も伝わる曳山祭は、天正2年(1574年)に秀吉に男児が誕生したのを祝って始められたとの伝承がある。

生母は諸説あり

宝厳寺の「竹生島奉加帳」には「御内方」(正室の寧々)、「大方殿」(母の)に続いて「石松丸」、「南殿」の名が記されており、これは秀吉の子とその母である側室を記したものであると推定され、桑田忠親はゆえに生母は側室南殿であると推測しているが、服部英雄は側室にしては寄進額がだいぶ少ないし、まして石松丸の母とする説には何も根拠がないと反論する[2]

一方、妙法寺寺伝には生母は松の丸殿(京極竜子[3]であると書かれているが、彼女が秀吉の側室となったのは天正11年(1583年)頃であり、天正2年(1574年)に秀勝を生んだという内容は、側室となったと推定される時期とかなりの齟齬があり、当時はまだ夫である武田元明が生きていたはずである。木下勝俊木下利房にも、元明と竜子の子であるという奇説があるが、併せて信憑性には問題がある。

記録・遺物

滋賀県長浜市妙法寺の羽柴秀勝廟

滋賀県長浜市の妙法寺には羽柴秀勝像とされる稚児姿の六、七の男児[4]を描いた肖像画が所蔵されていた。これは焼失し現存していないが、法要用の掛け軸「本光院朝覚居士絵像」の写真が多数残っている[5]

他にも天正4年10月14日の銘文と法名「朝覚霊位」と記された供養塔が残っている。同市の曹洞宗興福山徳勝寺には位牌があり、法名は「本光院朝覚居士」となっている[5]

同地の天台宗寶生山知善院には、天正4年10月14日に秀吉の子・秀勝が早世した故に、同月22日に仏供料として伊香郡井之口にて30石の寺領が与えられたという寺伝記録がある。

平成14年(2002年)、墓所を移築した際に発掘調査があり、安土桃山時代初期大名様式の「石囲い箱棺墓」が出土した。埋葬者はわかっていないが、羽柴秀勝の墓の伝承があった場所からの発見であり、その可能性があるとされる。新たな墓の発見によって、前述の石造笠塔婆(題目式笠塔婆)が併せて市指定文化財とされた[6]


  1. ^ 新田完三『信長の血脈 : 三大英傑因縁譚99』学習研究社、2009年。ISBN 9784059012337 
  2. ^ 服部 2012, p. 667.
  3. ^ 豊太閤展覧会 1939, p. 51
  4. ^ 例え、乳飲み子で夭折した場合にも、稚児姿で描くことは多く、肖像画は一般的に言って年齢を推定する手掛かりにはならない。同じく3歳で夭折した豊臣鶴松も亡くなった没年齢よりも成長した姿で描かれている。そもそもこれらは供養のために寺に奉納するのを目的として描かれたものであり、成長した穏やかな表情の絵姿で描くのがむしろ通例である。
  5. ^ a b c 渡辺 1919, p.60
  6. ^ 長浜市指定文化財 妙法寺 塚墓(石囲い箱棺墓)”. 長浜市. 長浜市 (2014年2月25日). 2022年7月4日閲覧。
  7. ^ 渡辺 1919, p.61
  8. ^ 渡辺 1980, p. 52.
  9. ^ 桑田 1986, p. 181.
  10. ^ 小和田 2009, pp. 36, 43.
  11. ^ 宮本 2010, p. 135.
  12. ^ 福田 2006, p. 85.
  13. ^ 当時は長浜城歴史博物館副参事・同学芸員。現在は同じく長浜市にある曳山博物館学芸員。
  14. ^ 森岡 1987, 羽柴於次秀勝について.
  15. ^ 明治大学大学院文学研究科(史学専攻)博士前期(修士)課程修了。長浜市長浜城歴史博物館学芸員、現在は同博物館館長。
  16. ^ 太田 2004.
  17. ^ 服部 2012, pp. 659–660.


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