鴨川 (淀川水系) 主な支流

鴨川 (淀川水系)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/14 01:18 UTC 版)

主な支流

源流

  • 中津川
  • 雲ケ畑川
    • 祖父谷川
    • 雲ケ畑岩屋川

起点以降に合流する支流

分流

  • 御手洗川(みたらしがわ)
明神川ともいう。北区上賀茂で賀茂川から分かれ、上賀茂神社境内を流れた後、再び賀茂川に合流する。境内では御物忌川、楢の小川とも呼ばれる。なお、下鴨神社境内にも同名の川があるが、こちらの水源は湧水であり、高野川を経て鴨川に注ぐ。[46]
この水は葵祭の神事に用いられる。
  • みそそぎ川
加茂大橋下流で鴨川から分かれ、西岸の河川敷(鴨川公園の地下川道、丸太町橋下流で地上へ)を鴨川本流と並行する。二条大橋の下流で高瀬川を分けた後、五条大橋付近で再び鴨川に合流する。もともとは高瀬川の水源を得るために設けられたもので、鴨川の河床が河川改修により低くなるにしたがって、水源を求めて上流部へ延長された。江戸時代の御所再建の際には、この水流を使って丸太町付近まで資材の運搬が行われた。夏の納涼床はこの川にまたがる形で設けられる。

水力発電所

鞍馬川・静原川・賀茂川(鴨川)より取水、水路式水力発電を行い、賀茂川(鴨川)に放流する「関西電力株式会社洛北発電所」がある。1908年(明治41年)「洛北水力電気株式会社」が設置、1914年(大正3年)に京都電燈の発電所となり、その後1940年(昭和15年)に京都市に売却され京都市電気局所管の市営発電所となり、1942年(昭和17年)配電統制令関西配電に現物出資された。1951年(昭和26年)、電気事業再編成により関西配電から関西電力に移管された。出力は1号機200kW・2号機250kWの合計450kWと1基あたりの出力は小水力発電所並だが現在も稼動している。

主な橋梁

鴨川に架かる橋は、豊臣秀吉の頃からの公設橋の三条大橋・五条大橋、太田垣蓮月が私財を投じて造った丸太町橋、町衆の力を集めて造られた四条大橋などの私設橋と、橋それぞれに様々な歴史が存在する。

そして明治30年代の「京都市3大事業」のひとつ京都市電の敷設に併せて丸太町橋・四条大橋・七条大橋が市電の荷重に耐えられる近代橋に架け替えられたが、2012年現在、鴨川にかかる橋の多くは1935年(昭和10年)6月の京都水害(鴨川水害)で倒壊したり、水害対策の河川改修に伴い架け替えられたり、五条大橋のように戦後の道路拡幅により、塩小路橋・丸太町橋は老朽化により1970年代以降に架け替えられている。現存する橋で最古の橋は1913年春に竣工した七条大橋で、開通から既に100年を経過している[47][48][6]。2017年末時点で賀茂大橋・荒神橋・二条大橋では耐震補強や安全基準に合わせた改修が行われている[49]

以下上流側より記す。

岩屋橋 - 出合橋 - 山幸橋 - 十三石橋 - 高橋 - 庄田橋 - 志久呂橋 - 賀茂川通学橋 - 西賀茂橋 - 御薗橋御薗橋通) - 上賀茂橋玄以通) - 北山大橋(北山通) - 北大路橋(北大路通) - 出雲路橋(鞍馬口通) - 葵橋(下鴨本通) - 出町橋 - 賀茂大橋(今出川通) - 荒神橋(荒神口通) - 丸太町橋(丸太町通) - 二条大橋二条通) - 御池大橋(御池通) - 三条大橋三条通) - 四条大橋四条通) - 団栗橋 - 松原橋(松原通) - 五条大橋 - 正面橋(正面通) - 七条大橋七条通) - 塩小路橋(塩小路通) - (JR東海道本線鴨川橋梁) - (JR東海道新幹線鉄橋) - (JR奈良線鉄橋) - 九条跨線橋(九条通) - 東山橋 - 陶化橋(十条通) - 勧進橋(竹田街道) - 水鶏橋 - (近畿日本鉄道京都線鉄橋) - 竹田橋 - 京都南大橋(油小路通) - 大宮大橋(大宮通) - 鳥羽大橋(国道1号) - 鴨川大橋(名神高速道路) - 小枝橋 - 京川橋


注釈

  1. ^ 下鴨神社のある地点
  2. ^ おおまかにいうと上賀茂神社のあたりから四条大橋のあたりまで
  3. ^ 植村 (2011)では「扇状地II面」及び「扇状地III面」、高橋 (2012)では「完新世段丘II面」及び「現氾濫原面」と呼ぶ範囲。
  4. ^ 植村 (2011)では「扇状地I面」、高橋 (2012)では「完新世段丘I面」、河角 (2001)では「段丘面III(完新世段丘面)」の上に位置する。
  5. ^ 平安京造営時における出町以南における鴨川水系の氾濫原の範囲には、現在の鴨川流路が含まれる[23][24]が、このことは、現在のような鴨川の流路をとっていたことを直接は意味しない。
  6. ^ 賀茂神社を流れる鴨川の支流を指すという説もあり。糺森(ただすのもり)の南で本流に入る。
  7. ^ 京都市が許可を得て鴨川上流で捕獲してDNA鑑定したところ、捕獲したオオサンショウウオの90パーセント以上が交雑種、またはチュウゴクオオサンショウウオだった[41]

出典

  1. ^ 特別企画第1弾鴨川源流域を歩く、鴨川探検!再発見!(京都府ホームページ)
  2. ^ 木村万平『鴨川の景観は守られた : “ポン・デ・ザール”勝利の記録』かもがわ出版、1999年。 NCID BA41244790 
  3. ^ 京都二条、五条の大橋流失『大阪毎日新聞』昭和10年6月29日号外(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p206-207 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 今度は台風が連れてきた豪雨『東京朝日新聞』昭和10年8月11日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p209 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  5. ^ 『京都市水害誌』(1936年3月、京都市発行、京都府立京都学・歴彩館所蔵(資料ID110487853))
  6. ^ a b c 植村 2011.
  7. ^ 植村 2011, p. 52, 第2章「鴨川と京都の水害史」.
  8. ^ 今度は近畿に豪雨『日本経済新聞』昭和26年7月12日3面
  9. ^ 一瞬・京阪神に豪雨禍『朝日新聞』昭和26年7月12日3面
  10. ^ 塚本常雄「京都市域の変遷と其地理学的考察」『地理論叢』(第一輯)所収
  11. ^ 林屋辰三郎『京都』岩波書店〈岩波新書〉、1962年、6頁。ISBN 4-00-413095-6 
  12. ^ 横山 1988, pp. 9–40.
  13. ^ 横山 1988.
  14. ^ 横山 1988, p. 131.
  15. ^ 横山 1988, pp. 124–131。表流水が岩盤によってせき止められることだけではなく、「(「鴨川つけかえ説」による)古賀茂川の流路は地下の岩盤の尾根をほぼ直角に越えねばならない。もちろん理屈としては水は地表面を流れるのだから不可能ではないが、川は地下水とともに流動していて、地下に存在する旧河道いわゆる先行河川を大きくそれることはほとんどないという自然史学上の常識と大きく異なっている」[14]と、地下の岩盤の存在による地下水流の影響も含めて考察している。
  16. ^ 横山 1988, pp. 92, 123.
  17. ^ 横山 1988, p. 152.
  18. ^ 高橋学 著「近世における京都鴨川・桂川の水害」、吉越昭久・片平博文 編『京都の歴史災害』思文閣出版、2012年、33-45頁。ISBN 978-4-7842-1643-7 
  19. ^ 小谷愼二郎 著、法政大学大学院エコ地域デザイン研究所歴史プロジェクト 編『水から見た京都:都市形成の歴史と生活文化』2007年。 
  20. ^ 荒井まさお『賀茂川の謎を追って』文芸社、2001年。ISBN 4-8355-2457-8 
  21. ^ 植村 2011, pp. 34–56, 「第2章 鴨川と京都の水害史」.
  22. ^ 加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(上)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 912号、史迹美術同攷会、2021年、50-62頁。ISSN 0386-9393 加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(中)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 913号、史迹美術同攷会、2021年、72-84頁。ISSN 0386-9393 加藤繁生「『鴨川つけかえ説』再び(下)ー横山卓雄「鴨川非つけかえ説」の不審ー」『史迹と美術』 914号、史迹美術同攷会、2021年、123-130頁。ISSN 0386-9393 
  23. ^ a b c d e 高橋 2012, p. 37.
  24. ^ a b c d 植村 2011, p. 38.
  25. ^ 加藤 2021a, pp. 59–60.
  26. ^ 河角龍典「平安京における地形環境変化と都市的土地利用の変遷」『考古学と自然科学 = Archaeology and natural science : 日本文化財科学会誌』第42巻、奈良 : 日本文化財科学会、35-54頁、2001年。ISSN 02885964https://www.jssscp.org/files/backnumbers/vol42_3.pdf によれば、縄文時代の河川堆積の作用が見られる一方で、縄文時代晩期の遺構が見られるとし、その時期(縄文時代晩期)には概ね地形が形成されていたことを示している。すなわちある時代の生活遺構が載るということは、その時代以降には概ね地形が形成されていたことを示している。
  27. ^ a b 林屋 1962, p. 6.
  28. ^ 横山 1988, pp. 91, 123.
  29. ^ 「京都盆地北部の扇状地-平安京遷都時の京都の地勢-」『古代文化』 34-12巻。 
  30. ^ 河角龍典「歴史時代における京都の洪水と氾濫原の地形変化 遺跡に記録された災害情報を用いた水害史の再構築」『京都歴史災害研究』第1巻、立命館大学歴史都市防災研究センター京都歴史災害研究会、13-23頁、2004年3月19日。doi:10.24484/sitereports.118316-44701ISSN 13493388https://r-dmuch.jp/wp/assets/ja/results/disaster/dl_files/1go/1_3.pdf 
  31. ^ 高橋 2012.
  32. ^ 河角 (2003), p. 15では、平安京左京の鴨川流域では、10世紀頃まで流れていた旧河道が存在することを示す。
  33. ^ 久世康博「『平安京』下層地形の復元」『古代文化』 61-3巻、2009年。 久世康博「桓武天皇が見た平安京前夜の京都盆地」『史迹と美術』 824号、2012年。  久世 (2012)の論考は、自身が平安京跡の発掘調査に携わる中で小河川の痕跡を丹念に収集し、一部横山の主張を採り入れつつ「平安京前夜」の京都盆地の流路を復元・図示したものである。
  34. ^ 加藤 2021c, pp. 125–128.
  35. ^ 加藤 2021b, pp. 77–78.
  36. ^ 加藤 2021c, pp. 128–129。加藤は横山説を「自然科学の衣を二重三重に纏って真実らしさを装っているようなもの」と評する一方で、一様に「最近の地質学の研究によれば」と横山説に同調する歴史学者に対し、「その地質学が分かっていない」と辛辣に批判する。
  37. ^ 京都新聞2011年7月16日夕刊9面に掲載の「左右気にせず愛語り合う」では記者がメジャー片手にカップルの間隔を実地計測してレポートしている。また1994年に斉藤光橋爪紳也共著「kyoto恋愛空間」(学芸出版刊)にも鴨川等間隔の法則について書かれている
  38. ^ 鴨長明『無名抄
  39. ^ 源家長『家長日記』
  40. ^ オオサンショウウオ#分布
  41. ^ 京都新聞2012年2月15日朝刊1面
  42. ^ 天然アユ復活へ鴨川に魚道を設置を
  43. ^ アユ2万匹鴨川に遡上
  44. ^ 京都新聞2012年5月17日18面京都市民版
  45. ^ 京都新聞2017年6月22日1面
  46. ^ 御手洗川(明神川) - 京都観光Navi(京都市、京都高度技術研究所、2013年9月15日閲覧)
  47. ^ 京都新聞2012年9月24日朝刊 京都市地域版 22面・2013年4月13日朝刊 京都市地域版 21面
  48. ^ 「京阪沿線の名橋を渡る・七条大橋」『K PRESS』2014年3月号、京阪電鉄、8頁。 
  49. ^ 京都新聞2017年12月20日18面「二条大橋昭和18年より74年ぶりに改修」





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