雍正帝
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外交
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18世紀初頭以来のチベットの混乱に対し、康熙帝は危機に陥った朝貢国を救援するという立場から介入、ジュンガルの占領軍を撤退に追い込み、ダライ・ラマ位をめぐる混乱を整理、グシ・ハン一族には、ハン位継承の候補者を選出するよう促した。しかし、グシ・ハン一族の内紛は深刻で、ハン位の継承候補者について合意に達することができず、康熙帝はラサン・ハンの死によって空位となったチベットのハン位を埋めることができないまま没した。
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雍正帝は、グシ・ハン一族の定見のなさ、ジュンガルと結びつく可能性(グシ・ハン一族がジュンガルと組んで清朝と敵対した場合、アルタイ山脈から甘粛・四川・雲南にいたる長大なラインが前線と化す)などについて強い不信感を有しており、父帝の方針を一転し、即位後ただちにグシ・ハン一族の本拠であった青海地方に出兵、グシ・ハン一族を制圧した。雍正帝はグシ・ハン一族がカム地方の諸侯や七十九族と呼ばれたチベット系・モンゴル系の遊牧民たちに対して有していた支配権を接収、チベットをタンラ山脈からディチュ河の線で二分し、この線の北部は青海地方と甘粛・四川・雲南の諸省の間で分割、この線の南に位置する三十九族やカム地方西部は「ダライ・ラマに賞給」し、その支配をガンデンポタンに委ねた。
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外モンゴルにまで勢力を拡大したことで、オイラトや、ロシア帝国との国境を画定する必要が生じた。ロシアとはキャフタ条約を締結して外モンゴルの国境を定めるとともに、両国間での交易に関する協定が結ばれた。かつて康煕帝が結んだネルチンスク条約と同様、国境を画定させるという姿勢は、当時における中国の一般的な対外関係とは違いがみられるものの、対ロシア関係も理藩院において処理されたように、従来の朝貢秩序を揺るがすようなものではなかった。またオイラトとは、ガルダンの後継者ツェワンラブタンとの間で国境交渉を持ち、1730年にアルタイ山脈を境界とする取り決めが成立した。
注釈
- ^ 参考:「禛」は「示+眞」。
- ^ 実際の満洲語で犬は「indahūn」、豚は「ulgiyan」であり、また満洲人は動物の名称を名前に使用することは珍しくないこともありアキナを犬、サスヘを豚としたのは後世での何らかの意訳と思われる。康熙帝九男の息子たちは長男:フシフン fusihūn(卑しい者)、次男:フェチュフン fecuhun(後ろめたい人)、三男:ウビヤダ ubiyada(憎むべき者)、四男:エイメデ eimede(嫌なヤツ)、五男:ハイラン hairan(残念な人)、六男:ドゥンキ dungki(愚か者)、七男:ドゥシヒイェン dusihiyen(馬鹿)、八男:エイフン eihun(愚鈍蒙昧)と改名させられている。
- ^ a b c d 即位前に没した側室たちと思われる。
出典
- ^ "daicing gurun i šidzung temgetulehe hūwangdi i enduringge tacihiyan (大清世宗憲皇帝聖訓)"1740. [1]
- ^ 黄錫惠「清世宗諡宝之満文篆字研究」
- ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)pp.36、44-46、55-56)
- ^ “文字の獄”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 小学館
- ^ a b c “第13章 大義覚迷録 (文字の獄)”. 紫禁城の栄光明・清全史. 講談社学術文庫. pp. 269-272
- ^ “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 155-157
- ^ “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 157-159
- ^ a b “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 159-166
- ^ “七. 独裁政治の限界”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 177-178
- ^ 雑誌「中央公論」1989年8月「中国を叱る」より
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