雍正帝 内政

雍正帝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 16:52 UTC 版)

内政

文字の獄

文字の獄」(もんじのごく/もじのごく) とは中国における筆禍事件を指す言葉で、それ自体は秦朝を首めとし歴代王朝にみられ、特に珍しくもなかったが、清の康熙雍正乾隆の三朝における筆禍事件が特に有名であるため、狭義には清代の筆禍事件を指す。[4]乾隆朝における文字の獄が、官位をもたない一般庶民の何気ない言論までが攻撃対象となり、多数が処刑されたのに対し、雍正朝においては、官位を有する反体制的人物を標的とした。[5]雍正年間に起った有名な文字の獄としては、汪景祺、査嗣庭、呂留良の三名に絡む事件が挙げられる。

漢服を着た雍正帝と乾隆帝

汪景祺の獄

汪景祺は年羹堯の私設の秘書で、西北部に駐軍していた年羹堯を訪問した際の見聞録『西征隨筆』には清朝を侮辱する言葉がならび、とりわけ康熙帝の漢文教養の低さを嘲笑する文章は、子の雍正帝をして激怒させた。年羹堯が雍正帝から自死を賜ると、汪景祺も連座して斬首に処され、妻子は奴隷身分に貶められた。[6]

査嗣庭の獄

郷試の監督として江西省に派遣された査嗣庭は、『詩經』の「維民所止」(維これ民の止むる所) を試験問題として出したところ、「維」と「止」がそれぞれ「雍」「正」の「」と「一」を取り去ったもので、つまり雍正帝の首を刎ねることの暗喩だと誣告を受けた。雍正帝が査嗣庭の自宅を捜索させたところ、雍正帝を誹謗する日記などが押収され、査嗣庭は投獄された末に獄死した。さらに査嗣庭の死体は首を獄門に晒され、その子孫は流罪、さらに財産を没収された。この事件の背景には、査嗣庭がロンコド派に属していたことがあったとされる。中央官僚のロンコドは、西北で強大な軍事力を有する年羹堯と朋党を結成し、帝位を脅かす存在として雍正帝に警戒されていた。[7]

呂留良の獄

浙江人・呂留良は優秀でありながら清朝に奉仕することを潔しとせず、順治年間に在野の批評家に転身して以来、過激な攘夷発言を繰り返していた。その著書は呂留良の死後も、清朝を容認できない漢人層の支持をひろく集めていたが、湖南人・曾静も、呂留良の著書を読んで感銘を受けた者の中の一人で、自らの弟子を呂留良の弟子の許へ送り、清朝転覆を画策した。この一派は、年羹堯の後任として当時川陝総督の地位にあった岳鍾琪に目をつけ、女真国家・金王朝に抗戦した宋代の武将・岳飛と同じ岳姓の者として、清朝転覆のための謀叛を起こせと岳鍾琪を教唆したものの、当の岳鍾琪によって計画が中央に通報された為、曾静はお縄となった。[8][5]

雍正帝は訊問を通じて、曾静が大変に単純な男であることに気づき、理屈攻めにして論破した挙句、両者間の問答を『大義覺迷錄』という書物にまとめて出版させた。岳鍾琪や官僚らの奏摺を雍正帝からみせられ、すっかり感激しきった曾静に対して、雍正帝はそれ以上の追及しなかったが、呂留良は棺桶を暴かれた上に晒し首となり、その子孫も斬首や流刑に処された。しかし一方で、呂留良の著書は雍正帝の勅命によりあえて発禁とはならなかった。この事件を通じて呂留良党の漢人は鳴りを潜めたという。[8][5]

奴隷解放

雍正帝は、山西省の楽戸、浙江省の惰民および九姓漁戸、安徽省の世僕などの賎民階級を解放し、良民と同等に待遇した。これは、官吏に特権階級が存在することを認めない雍正帝の姿勢から出ている。特権は独り天子が之を有し、天子以外の万民は全く平等の価値しかもたないというのが雍正帝の思想であった。[9]

なお、制度としての奴隷階級は消滅したものの、奴隷に対する蔑視や生活環境の劣悪さはこれ以後も根強く残った[要出典]

仙人姿の雍正帝

言語政策

明朝期以前においては、南京の音にもとづく南京官話が規範とされていた。清朝期になると、官話の中心は徐々に南京官話から北京音をもとにした北京官話へと移っていった。そのような中で、雍正帝は中央統制体制を強化するために北京官話の普及をはかり、官話政策を提議した。福建省に「正音書院」と呼ばれる官話の音を学ぶ書院を建て、また広東省の民間の粤秀書院などを支援して官話教育を担わせた。これらの教育機関では、教科書として『正音摂要』『正音咀華』などが用いられた。[要出典]


注釈

  1. ^ 参考:「禛」は「示+眞」。
  2. ^ 実際の満洲語で犬は「indahūn」、豚は「ulgiyan」であり、また満洲人は動物の名称を名前に使用することは珍しくないこともありアキナを、サスヘをとしたのは後世での何らかの意訳と思われる。康熙帝九男の息子たちは長男:フシフン fusihūn(卑しい者)、次男:フェチュフン fecuhun(後ろめたい人)、三男:ウビヤダ ubiyada(憎むべき者)、四男:エイメデ eimede(嫌なヤツ)、五男:ハイラン hairan(残念な人)、六男:ドゥンキ dungki(愚か者)、七男:ドゥシヒイェン dusihiyen(馬鹿)、八男:エイフン eihun(愚鈍蒙昧)と改名させられている。
  3. ^ a b c d 即位前に没した側室たちと思われる。

出典

  1. ^ "daicing gurun i šidzung temgetulehe hūwangdi i enduringge tacihiyan (大清世宗憲皇帝聖訓)"1740. [1]
  2. ^ 黄錫惠「清世宗諡宝之満文篆字研究」
  3. ^ 宮崎(1950)(宮崎(1996)pp.36、44-46、55-56)
  4. ^ “文字の獄”. 日本大百科全書(ニッポニカ). 小学館. https://kotobank.jp/word/文字の獄-142337#:~:text=もんじ【文字】%20の%20獄,もじのごく%E3%80%82 
  5. ^ a b c “第13章 大義覚迷録 (文字の獄)”. 紫禁城の栄光明・清全史. 講談社学術文庫. pp. 269-272 
  6. ^ “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 155-157 
  7. ^ “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 157-159 
  8. ^ a b “六. 忠義は民族を超越する”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 159-166 
  9. ^ “七. 独裁政治の限界”. 雍正帝中国の独裁君主. 中公文庫. pp. 177-178 
  10. ^ 雑誌「中央公論」1989年8月「中国を叱る」より






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