陳寿 生涯

陳寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 00:18 UTC 版)

生涯

陳寿の生涯を書いた史料としては時代に編纂された『晋書』「陳寿伝」や東晋時代に編纂された『華陽国志』があるが、これらは極めて簡潔であり、相互に矛盾も存在している[1]益州巴西郡安漢県を代表する名門に陳氏・趙氏・閻氏・范氏が在り「安漢四姓」と称された。陳寿の出自は其処の「巴西陳氏」である。『晋書』では元康7年(297年)に65歳で没したとあるため、生年は建興11年(233年)とされるのが一般的であるが、津田資久のようにこの年が没年であるというのは考えられないという研究者も存在する[1]

陳寿は初め学識の高い譙周に師事し儒学史学を修め、蜀漢に仕えた[1]。その後の経歴には諸説があるが、衛将軍諸葛瞻の主簿、宮中文庫の管理者である東観秘書郎をつとめた[2]。『晋書』によれば「宦官黄皓に逆らって左遷された」とあるが、『華陽国志』にその記述は無い。津田資久は「卑官とはいえ中央の官職についているため、黄皓との対立自体が疑わしい」としている[3]。また父の服喪中に病気に罹り下女に薬を作らせており、発覚すると親不孝者として謗られた[注釈 3]

蜀漢滅亡後、王崇寿良李密李驤・杜烈(杜軫の弟)と共に都に入った。6人は益州・梁州を代表する俊才とされた。彼らの仲は晋に仕えるうちに疎遠となっていったが、王崇一人は寬和な性格であったため、5人との友誼を保ち続けたという。暫く仕官できなかったが、同門でかつての同僚の羅憲によって推挙され、西晋に仕えた。佐著作郎(7品官)に始まり著作郎をつとめ、杜預張華の推挙により治書侍御史・兼中書侍郎・領著作郎と官を進めた。また益州の地方史である『益部耆旧伝』・『益部耆旧雑記』や、蜀漢の諸葛亮の文書集『諸葛亮集』を編纂し、張華杜預荀勗に高く評価された。この他、やはり高く評価されたという『古国志』を著した。

晋による三国統一がなされた後、『三国志』を完成させた。張華は「『晋書』はこの本の後に続けるべきであろうな」と称賛した。『華陽国志』では、張華と荀勗が、陳寿は過去の歴史家である班固司馬遷にもまさるという評価を行ったとしている[4]。またこの頃母(『華陽国志』によると継母)が洛陽で死去すると、その遺言に従いその地に葬った。ところが、郷里の墳墓に葬る礼法に反しているとされ再び親不孝者と非難され、罷免されてしまった[2]

その後、年次は不明であるが[5]、陳寿は外地の長広郡太守(5品官)に任命された。これは一般的に左遷とみられている。『華陽国志』では「『三国志』「魏志」の部分に、荀勗が気に入らない部分があったため」とされる[4]。ただし同じ『華陽国志』では、その前に荀勗が『三国志』を絶賛したという記述があり、口実にすぎないとみられている[6]。田中靖彦は「咸熙二年(276年)に始まった呉征伐を巡って荀勗と張華が対立した際、陳寿が張華派に回ったからではないか」としている[6]。陳寿はこれを母の病気を理由に辞退したが、経緯を知った杜預の推薦により、検察秘書官である治書侍御史に任命された。

都に戻った陳寿は皇太子司馬遹の太子中庶子とされたが、『晋書』では任官しなかったとされる[7]。『華陽国志』では太子中庶子と散騎常侍を兼ねたとされ、恵帝が陳寿の才能を認める言葉を残すほど称賛し、張華も九卿に取り立てようとしたという[7]。『晋書』では太子中庶子在任中の元康7年(297年)に65歳で没したとされるが[2]、『華陽国志』では元康9年(299年)に司馬遹が廃太子とされた後に散騎常侍とされたとしており、その後も生存している[8]。張華は永康元年(300年)に失脚・処刑されているが、陳寿がこれに連座したという記録はない[8]。没した地は洛陽であるとされる[2]


注釈

  1. ^ 『晋書』陳寿伝と『華陽国志』では没年が異なり、『華陽国志』では「張華が没した300年以降」と記録されている。
  2. ^ ともに陳符と陳蒞は陳寿のの子、陳階は陳蒞の従弟(『華陽国志』「後賢志」陳寿伝訳注、原文「兄子符,……符弟蒞,……蒞従弟階,字達芝,州主簿,察孝廉,褒中令、永昌西部都尉、建寧興古太守。皆辞章粲麗,馳名当世。凡寿所述作二百余篇,符、蒞、階各数十篇,二州及華夏文士多為作伝,大較如此。」)。
  3. ^ これは儒教の礼教において、親が死ぬと子は嘆き悲しみ、飲食も碌に摂らず痩せさらばえ、杖無しでは歩けぬ程に成るのが「孝」とされた為であり、親の服喪中に我が身を労わるのは以ての外とされていたからである。
  4. ^ 『蜀志』諸葛亮伝注による。
  5. ^ 正史『晋書』は648年刊。
  6. ^ 王鳴盛の『十七史商榷』の陳寿擁護にはいくつかの事実誤認(丁儀らは単なる巧佞の臣で伝を立てられるはずがない、諸葛亮は6度も祁山に出征し、一勝も収めなかったなど)があり、反論を受けている。丁儀は曹操に高く評価され、その死を世に惜しまれたとされ、『魏略』にはその伝が立てられている。また陳寿の『三国志』自体によれば、諸葛亮が祁山に出たのは2度であり、北伐全体も5度で、第三次北伐では勝利も挙げている。
  7. ^ 裴松之は本件について注釈において、「蜀漢正統論」を唱えた最初の歴史書として知られる習鑿歯の『漢晋春秋』を使って補っている。
  8. ^ 陳寿同様に蜀漢の旧臣で西晋に仕えた李密(『文選』などに採録された、『陳情事表』で知られる文人)に対しても、同様の非難が浴びせられている。

出典

  1. ^ a b c 田中靖彦 2011, p. 70.
  2. ^ a b c d 田中靖彦 2011, p. 71.
  3. ^ 田中靖彦 2011, p. 73.
  4. ^ a b 田中靖彦 2011, p. 84.
  5. ^ 田中靖彦 2011, p. 90.
  6. ^ a b 田中靖彦 2011, p. 85.
  7. ^ a b c 田中靖彦 2011, p. 83.
  8. ^ a b c d 田中靖彦 2011, p. 87.
  9. ^ a b 田中靖彦 2011, p. 71-72.
  10. ^ 田中靖彦 2011, p. 78.
  11. ^ 田中靖彦 2011, p. 76.
  12. ^ 田中靖彦 2011, p. 78-80.
  13. ^ 田中靖彦 2011, p. 81.
  14. ^ 渡邉義浩『「古典中国」における史學と儒教』汲古書院、2022年、P107-113.


「陳寿」の続きの解説一覧




陳寿と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「陳寿」の関連用語

陳寿のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



陳寿のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの陳寿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS