連合国救済復興機関 連合国救済復興機関の概要

連合国救済復興機関

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:34 UTC 版)

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加盟国は約37億ドルを活動資金として負担し、その7割以上をアメリカ合衆国が拠出したが、援助物資の横領や贈収賄が横行して批判を浴びた。また、東欧諸国への援助が多く実施されたことに米国が反対したことから、1947年に大半の活動を終了した。以後、救済復興事業は国際難民機関 (IRO) 、食糧農業機関 (FAO) 、国際児童緊急基金 (UNICEF) などの国連機関に継承された。

国際連合の創設以前に設立された機関であり、英名に含まれる「United Nations」を「国際連合」と訳すことは、日本では一般的ではない[1]

設立

UNRRAは、連合国戦後必要物資委員会 (Interallied Postwar Requirements Committee) の改組によって設立された。連合国戦後必要物資委員会とは、イギリスをはじめ各国亡命政府によって1941年に設置された委員会であり、その名の通り欧州の戦後復興に必要とされる物資について調査した[2]

ソ連は同委員会を国際的組織に発展させるよう求め、米国もこれに同調した。米国はイギリスソ連中華民国と共に創設条約の草案を作成し、44の連合国政府による若干の修正を経て、1943年11月9日ワシントンホワイトハウスで調印に漕ぎ着けた。

創設条約は前文および本文10か条からなり、UNRRAの目的を次のように謳っている。

連合国軍隊による解放とともに、もしくは敵の撤退とともに、いずれの地域の住民も、援助その苦難からの救済、食糧、衣類、宿舎、流行病を予防するうえの援助、住民の健康を回復するための援助をうけるものとする。

また、捕虜および難民を本国に送還するために、および緊急に必要とされる農業および工業生産の再開と必要欠くべからざるサービスの回復についての援助のために、準備が行なわれ取り決めがなされるものとする — 板垣與一編、佐藤和男訳『アメリカの対外援助』、58頁。

UNRRAは1943年11月10日ニュージャージー州アトランティック・シティで第1回理事会を開催し、行動原則を策定した。それによると、被援助国は供与された物資を国内で販売し、その利益はUNRRAとの合意の上で、救済及び復興のために支出されるべきことが定められた。また、貧困層にも援助物資が行き渡るよう、物資の一部は無償供与すること、富裕層が物資を買い占めないよう留意すること、政治的・人種的・宗教的な理由で差別的待遇をなしてはならないことが規定された[3]

参加各国の拠出額は概ね1943会計年度中の国民所得の1%(第3回理事会決議により、2%に引き上げ)であり、そのうち少なくとも10%は諸外国で使用できるように交換可能な形態のものとされ、残りの90%は参加各国が自国内で救援物資の購入に充てることとされた[4]

米国議会

ローズヴェルトはUNRRAを各国との行政協定によって設立しようとしていたが、議会の承認を経ることなく政府の独断でUNRRA設立を行うことに、議会は強く反発した。加えて、ソ連やその衛星国が加わった戦後国際機構の枠組み形成を既成事実化することに、警戒心を示した。

共和党の有力議員アーサー・ヴァンデンバーグは7月、「UNRRA設置に上院で3分の2の賛成可決が必要か否かを外交委員会で調査する」との決議案を上院に提出した[5]

米国議会は幾度にも及ぶ公聴会の末に、米国のUNRRA参加と13億5,000万ドル(1943会計年度中の米国の国民所得の約1%)の拠出を承認した[6]。最初の予算法は、このうち4億5,000万ドルを承認し、2,170万ドルが米国産羊毛の購入に、4,320万ドルが綿花の購入に充てられるとした。これら商品は、農業不況の中にあってだぶついていたものであり、余剰物資処理の格好の手段としてUNRRA援助が用いられた面は否定できない[7]

しかし議会は財政支出の増大を大いに警戒しており、UNRRAが救済型復興という目的を超えて拡大することには反対した[6]


  1. ^ 有賀貞「トルーマン・ドクトリン」(『原典アメリカ史(第6巻)』、225頁)は「国連救済復興局」、土屋清「UNRRA」(『世界大百科事典(1964年版)』)は「国際救済復興機関」と訳している。
  2. ^ 板垣、佐藤(1960年)、57-58頁。
  3. ^ 板垣、佐藤(1960年)、58-59頁。
  4. ^ 板垣、佐藤(1960年)、59-60頁。
  5. ^ 福田茂夫「戦後世界政治の原点―ヴァンデンバーグと超党派冷戦外交の助走」 川端(1988年)、13頁。
  6. ^ a b 板垣、佐藤(1960年)、60頁。
  7. ^ 板垣、佐藤(1960年)、60-61頁。
  8. ^ 板垣、佐藤(1960年)、68頁。
  9. ^ ラ・ガーディアはイタリア出身の人物であるが、幼少期に米国に帰化した。その際、ミドルネームの「エンリコ (Enrico) 」を英語風の「ヘンリー (Henry) 」に改めた。
  10. ^ コロンビア百科事典第6版
  11. ^ 板垣、佐藤(1960年)、61頁。
  12. ^ 板垣、佐藤(1960年)、65-66頁。
  13. ^ a b 板垣、佐藤(1960年)、65頁。
  14. ^ 板垣、佐藤(1960年)、66頁。
  15. ^ a b 板垣、佐藤(1960年)、63頁。
  16. ^ a b 板垣、佐藤(1960年)、64頁。
  17. ^ 板垣、佐藤(1960年)、70頁。
  18. ^ 板垣、佐藤(1960年)、71頁。
  19. ^ 板垣、佐藤(1960年)、70-71頁。
  20. ^ 板垣、佐藤(1960年)、71頁。
  21. ^ 板垣、佐藤(1960年)、71-72頁。
  22. ^ a b c 板垣、佐藤(1960年)、72頁。


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