米田町 (加古川市) 地理

米田町 (加古川市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/05 05:41 UTC 版)

地理

米田町は、東側は加古川を挟んで加古川町、南側は高砂市、北側は東神吉町と隣接している。大字として米田町船頭・米田町平津がある。人口は、2013年12月1日現在、5,929人(男2,775人、女3,121人)、面積は、3.41 km2[1] である。

歴史

米田町船頭は、1889年明治22年)まで印南郡船頭村であった。第12代加古川城主糟谷武則の弟である糟谷武政が、大坂夏の陣の後、帰農した。当時加古川は、上流の益田で二つの流れに分かれており、船頭地区はその流れの間に位置していた。住民は主に、加古川を渡る旅人のための渡船業を営んでいた。江戸時代の治水事業により西側の流れがせき止められ、川跡は、開墾されたが、加古川に近いことからたびたび水害に悩まされ、農地開発は進まなかった[2]
米田町平津は、1889年(明治22年)まで印南郡平津村であった。名の由来は、その地にあった荘園の名による[3]1664年寛文4年)、福正寺が創建された[4]
1889年(明治22年)に印南郡米田村の一部となった。1918年大正7年)から加古川河川改修工事が開始され、1933年(昭和8年)に竣工した[5]1919年(大正8年)に日本毛織印南工場が操業を開始し[6]、工場・社宅・休養施設が次々に建設された。1950年昭和25年)10月6日、国民健康保険直営宝殿病院[7]が開院した。1956年(昭和31年)9月18日に兵庫県合併審議会の裁定の結果、米田町の船頭・平津地区は、加古川市に編入された[8][9]1980年(昭和55年)4月1日、加古川夜間急病病院が、1995年平成7年)4月、 加古川歯科保健センターに設立された。2006年(平成18年)にはロックタウン加古川が開業した[10]

小中学校

小学校
中学校

  1. ^ 地区別面積
  2. ^ 兵庫県印南郡 1916, p. 19.
  3. ^ 兵庫県私立印南郡教育会 1906, p. 19.
  4. ^ 兵庫県印南郡 1916, p. 147.
  5. ^ 国土交通省 近畿地方整備局 姫路河川国道事務所. “加古川水の新百景 No.105 加古川改修記念碑”. 2014年1月3日閲覧。
  6. ^ ニッケグループ. “ニッケグループ沿革”. 2014年1月1日閲覧。
  7. ^ 後に加古川西市民病院となるが2016年閉院し、2018年、跡地にフェニックス加古川記念病院が開院
  8. ^ 加古川市誌編集委員会 2000, pp. 861–865.
  9. ^ 加古川市誌編集委員会 2000, pp. 873–875.
  10. ^ 日本毛織株式会社. 2006ニッケレポート (PDF) (Report). p. 5. 2014年1月11日閲覧


「米田町 (加古川市)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「米田町 (加古川市)」の関連用語

米田町 (加古川市)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



米田町 (加古川市)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの米田町 (加古川市) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS