第一次世界大戦下の日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 08:05 UTC 版)
影響
旧ドイツ権益の獲得
連合国の勝利に大きく貢献したこれらの功績により、日本は連合国五大国の一国としてパリ講和会議に参加し、ヴェルサイユ条約によりドイツの山東省権益と、パラオやマーシャル諸島などの赤道以北の南洋諸島を委任統治領として譲り受けるとともに、国際連盟の常任理事国となった。なお、戦中すでにドイツから海底ケーブルを鹵獲しており、後に対米外交の取引に用いた。
内政への影響
日本は当時すでに世界有数の工業国として近代工業が隆盛を誇っており、国土も直接の戦火を免れた。連合国の他の参戦国から軍需品の注文を受けて、日本郵船が繁忙を極めたり成金が出現したりする大戦景気に沸いた。
一方、急激にインフレーションが進み、貧富の差が広がった。また、戦争が終わると一転して戦後恐慌と呼ばれる不景気に見舞われた。工業は成長して生産力は増大、都市に人口が集中するなど人々の生活は大きく変わった。
外交面でのアメリカ合衆国との関係悪化
日清戦争や日露戦争に勝利して列強の一角を占めた日本は、第一次世界大戦の勝利により「列強の一国」としての地位をさらに強固なものとし、戦後のヴェルサイユ条約により、ドイツが所有していた山東省の権益とアメリカが植民地支配するフィリピンとハワイの間に位置するパラオやマーシャル諸島の統治権を獲得したことや、シベリア出兵を継続するなどしたことが、日本がアジア太平洋地域において排他的経済ブロックを構築し、アメリカによる中国への経済進出を阻害するのではないかとの警戒を呼んだ。
これに対してアメリカは、元宗主国で関係が深いイギリスに働き掛けて日英同盟を撤廃させるよう圧力をかけたほか、日本が国際連盟で主張した人種的差別撤廃提案に対しても他国を上回る勢いで強硬に反対した。さらに国内でも、日本人移民が多いカリフォルニア州などを中心に、黄色人種に対する人種差別を背景に日本に対する脅威論が支持を受けた他、これに後押しされた人種差別的指向を持つ諸派が「黄禍論」を唱え、その結果、排日移民法によって日本からアメリカへの移民が禁止された。
これらのアメリカ当局による人種差別も背景にした一方的ともいえる敵対的行動に対して、日本でも反米感情が高まり日米関係は悪化することとなり、日本のアメリカとの別離と、アメリカによるイギリスとの引き離し、その結果としてのドイツ、イタリアへの接近、その後の第二次世界大戦における両国の衝突に繋がった。
日英同盟の解消
日英間の関係を分断すると同時に、アジア太平洋地域と中国における自国の権益を守護するべくアメリカ政府が提唱した「太平洋における領土と権益の相互尊重」と、「諸島における非軍事基地化」を取り決めた「四カ国条約」が、1921年(大正10年)に日本、アメリカ、イギリス、フランスの間で締結され、アメリカ政府の要求通りに日英同盟は発展的に解消された。
日露戦争後には友邦となっていたロシアがその後の単独講和を経てロシア革命によって共産化したことも重なり(ソビエト連邦の成立)、日本は実質的な同盟国を有さない状態となった。
- ^ 我部 1982, p. 74.
- ^ a b 我部 1982, p. 75.
- ^ a b 我部 1982, p. 82.
- ^ “日本外交文書デジタルアーカイブ 大正3年(1914年) 第3冊 11 独領太平洋諸島占領一件”. 六五二 十一月二十七日 加藤外務大臣 在本邦英国大使会談. 外務省. 2021年1月5日閲覧。
- ^ 我部 1982, p. 84.
- ^ a b 『世界の歴史14 第一次世界大戦後の世界』江口朴郎編集、中公文庫、昭和50年
- ^ a b 内藤泰朗 (2014年8月3日). “「地中海で戦ったこと忘れないで」甦る日本艦隊への評価 地中海の小国マルタ 第一次大戦開戦100年”. 産経新聞 2019年4月27日閲覧。
- ^ 安倍晋三首相、マルタの日本海軍戦没者墓地で献花 産経新聞(2017年5月28日)2017年5月29日閲覧
- ^ 三輪祐児『海の墓標―戦時下に失われた日本の商船』展望社、2007年、68-86頁。ISBN 978-4-88546-170-5。
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